ファラオの一覧
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現存する碑文としては最初期のものであるパレルモ石。上記はパレルモ博物館の最も大きなもの。この他に断片がカイロ博物館、ピートリー博物館などにある。第5王朝の頃に作られたとされ、初期王朝時代後期から第5王朝のネフェリルカラーまでの王名が記録されている[1]

ファラオの一覧(ファラオのいちらん)は、紀元前3000年前から始まる古代エジプトを統治したファラオの一覧である。詳細は「en:List of pharaohs」を参照
前提
本稿の記述について

これまで、ファラオの一覧は帝国時代に書かれたトリノ・パピルスや、紀元前3世紀の歴史家マネトの記した『エジプト史』、セティ1世の葬祭殿やパレルモ石に残されたファラオのリストなど、様々な過去の遺物を資料としてその調査研究が進められているが、これらの情報はいずれも断片的であり、相互に矛盾する点も多いため参考文献や資料によってその内容は大きく異なる。

本稿に記すファラオの一覧は特に脚注の無い箇所については基本的にエジプト考古学者ピーター・クレイトンが著した『古代エジプト ファラオ歴代誌』と - ジョン・E・モービー の『世界歴代王朝王名総覧』を元に書き起こし、補完情報や記述の異なる情報については別途脚注で出典・説明を加えるものとする。また、資料の少ない第一中間期および第二中間期のファラオについては系図の復元が難しく、現在も議論が継続しているため、比較的新しい邦訳資料であるエイダン・ドドソンの『全系図付エジプト歴代王朝史』の記述も参考にする。尚、一覧中の日本語表記ならびに英語表記に関しては吉村作治の『古代エジプトを知る事典』に倣った。
年代の分類について

年代の分類についてもファラオの一覧と同様、資料によってまちまちであり、本稿はクレイトンの分類を元にしている。マネトはエジプトが統一されたと考えられる紀元前4000年期末からアレキサンダー大王に征服される紀元前332年までの期間を30の王朝に分割しており、現代のエジプト史研究もそれが基礎となっている[2]紀元前343年からの第31王朝第2次ペルシア支配、紀元前332年からのマケドニア王国による支配とプトレマイオス朝の時代を第32王朝とする場合もある[3]

年代そのものについては、地中海文明とのつながりができた紀元前664年第26王朝プサムテク1世の時代から確かなものであるとされており[1]、それ以前の年代は20年から200年の単位で誤差が生じている可能性があるとクレイトンは述べている。
初期王朝時代古代エジプトを統一した最初のファラオとされるナルメル

初期王朝時代は黎明期と呼ばれる紀元前3150年から3050年頃までの第1王朝以前と、第2王朝が終わる紀元前2686年頃までの二つに分けることができる。黎明期は先王朝時代の各王朝(紀元前5000年頃から興った上下エジプトの王朝)を統一した年代とされており、一般にはナルメルがその創始者であるとされる[4]。また、別の王として上エジプトのヒエラコンポリスで発見された儀礼用鉾(メイスヘッド)にサソリの絵と共に描かれた名前のわからないファラオ(スコルピオン)がおり、この二人が同一人物なのかどうかは不明である[5]。さらに、マネトによればエジプトを統一したのはメネスであるとしており、ナルメルやスコルピオンとメネスが同一人物なのかどうかについても結論が出ていない[5]

ナルメルの後継者として次の王となったのが王妃ネイトへテプ(英語版)との間に設けたとされるホル・アハで、上下エジプトの統一王名(ネブティ名)として「メン」という名を持っている。「メン」は「樹立された」を意味する言葉で、彼の建設した首都メンフィスにもその名を見ることができる。また、マネトの言う最初の統一王朝の王「メネス」とも通じることからホル・アハをメネスであるとする研究者も多い[6]

ホル・アハの後継となったジェル(アトティス)の治世は、57年の長きに渡っているとされ、アビドスに作られたジェルの墓の周辺には300人以上の家臣の殉葬墓がある。その後はジェト(ワジ)が統治したとされるが、ジェルの王妃メルネイトは、アビドスの墓の調査などからジェルとジェトの統治期間の間に単独または短期間の摂政政治を行った可能性が指摘されている。ただし、マネトは女性が王位に就くことが認められたのは第2王朝のニネチェルの時代以降であるとしている。

デンの時代には出土した象牙ラベルに「初めて東を懲らしめる」と記されており、アジア人との接触が確認できる。アネジブ(ミエビドス)の時代には王家は南北に分かれて大きく争った。その後争いはおさまり、セメルケトの治世に入るが、サッカラにあるテンロイの墓から出土した王名表(サッカラ王名表)にはその名が載せられておらず、いくつかの出土品からアネジブの名を抹消していることなどから、セメルケトは王位の簒奪者であったとする説もある。

第1王朝の最後の王はカアであるが、マネトはその名をビエネケスとしており、その他にも統治を行った王が存在する可能性もある。

マネトは第2王朝は9人の王によって302年間統治されたとしている。しかし、現存する他の史料や文献などから多くても第2王朝の王は6人、統治期間は200年弱であるというのが一般的な見解となっている[7]ヘテプセケムイラネブニネチェルの統治についてはほとんど知られていない。

6番目にセケムイブという名で即位したセト・ペルイブセンの時代には南北の勢力争いが再び激化し、内乱の時代となったとされている。これはホルスセトの神話的対立の名の下に起こった争いで、セケムイブはセト派に肩入れし、そのホルス名をセト・ペルイブセンに改め、国家規模でホルス神信仰からセト神信仰への改宗が行われた。

第2王朝最後の王であったカセケムイの前に、カセケムという名の王がいたとする場合もある。一方でこの二人は同一人物でセト・ペルイブセンの時代に乱れた国土を統一したカセケムが「二つの力強いものの出現」を意味するカセケムイへと名を変えたとする説もある。

王朝名在位(年)王名(英字表記)即位名
黎明期?スコルピオン1世(Scorpion)?
?イリホル(Iry-Hor)イリホル
?カー(Ka)カー
前3150 - 3125年頃スコルピオン2世(Scorpion II)?
第1王朝前3125 - 3062年頃ナルメル(Narmer)ナルメル(ホルス名)
前3062 - 3000年頃ホル・アハ(Hor-Aha)ホル・アハ(ホルス名)
前3000 - 2999年頃ジェル(Djer)ジェル(ホルス名)
前2999 - 2977年頃ジェト(Djet)ジェト(ホルス名)
前2977 - 2951年頃デン(Den)デン(ホルス名)
前2951 - 2925年頃アネジイブ(Anedjib)アネジブ(ホルス名)
前2925 - 2916年頃セメルケト(Semerkhet)セメルケト(ホルス名)
前2916 - 2890年頃カア(Qa'a)カア(ホルス名)
第2王朝前2890 - 2847年頃ヘテプセケメイ(Hotepsekhemwy)ヘテプセケムイ(ホルス名)
前2847 - 2808年頃ラーネブ(Raneb)ラーネブ(ホルス名)
前2808 - 2761年頃ニネチェル(Nynetjer)ニネチェル(ホルス名)
前2761 - 2753年頃ウェネグ(Weneg)?
前2753 - 2733年頃セネド(Senedj)?
前2733 - 2716年頃セト・ペルイブセン(Seth-Peribsen)セケムイブ(ホルス名)
前2716年頃セケムイブ・ペルエンマート(Sekhemib-Perenmaat)?
前2716 - 2686年頃カセケムイ(Khasekhemwy)カセケム(ホルス名)

古王国時代ギザの3大ピラミッド。右からクフ王カフラー王メンカウラー王のもの。大型で精緻なピラミッドの多くは第4王朝時代に登場した。

メンフィスを中心として中央集権国家体制が確立された第3?第6王朝の期間を古王国時代と呼ぶ[8]


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