ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ
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ファハド
???‎
サウジアラビア国王
ファハド国王(1982年)
在位1982年6月13日 - 2005年8月1日

全名??? ?? ??? ?????? ?? ????‎
ファハド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード
出生1923年
ナジュドリヤド
死去2005年8月1日
サウジアラビアリヤド、キング・ファイサル専門病院
埋葬2005年8月1日
サウジアラビアリヤド、ウード墓地
子女一覧参照

ファイサル
モハメド
サウード
スルターン
アブドゥルアズィーズ

家名サウード家
父親イブン・サウード
母親ハッサ・ビント・アフマド・アッ=スデイリー
宗教イスラム教ワッハーブ派
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ファハド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード(アラビア語: ??? ?? ??? ?????? ?? ????‎, ラテン文字転写: Fahd bin Abdulaziz Al Saud、1923年 - 2005年8月1日)は、第5代サウジアラビア国王ワッハーブ派イマームとしてはファハド1世。長男はファイサル・ビン・ファハド
生涯

初代国王アブドゥルアズィーズが数多くの妻の中で最も寵愛したハッサ(英語版)の息子である。

1923年にリヤドで生まれたとされるが、正確な生年月日は不明である。第二次世界大戦後の1953年にサウジアラビアの文相、1962年に内相を務めた。

1964年に即位したファイサル国王の右腕として、1967年に新設された第二副首相に就任した。

第四次中東戦争をきっかけに第一次石油危機が起きた1973年12月に日本から中東特使としてサウジアラビアに派遣された三木武夫を迎え入れてファイサル国王とともに会談し、日本を友好国扱いにして対日石油供給制限を解除した[1][2]

1974年アメリカ合衆国リチャード・ニクソン大統領ヘンリー・キッシンジャー国務長官と会談して原油をドル建て決済で安定的に供給するサウジアラビアに米国は安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)をファイサル国王とともに交わしてオイルダラーを確立した[3][4][5][6][7]

1975年にファイサル国王が暗殺された後は王太子・第一副首相となり、病弱なハーリド国王を補佐して内政・外交両面で政治手腕を発揮した。
治世アメリカ合衆国大統領ジミー・カーター(右)と、1979年米大統領ロナルド・レーガン(中央)とドナルド・トランプ(右端)と、1985年

1982年6月12日に、ハーリド国王崩御に伴いサウジアラビア王国第5代国王に即位した。

1980年代は、ソビエト連邦に対抗してアフガニスタンムジャーヒディーンからニカラグアコントラまで支援するなど基本的に親米路線で西側寄りだったが、1987年にはイラン・イラク戦争でサウジアラビアから巨額の財政支援[8]を受けていたサッダーム・フセイン政権下のイラクによってアメリカ海軍ミサイルフリゲートスタークが攻撃を受けた際は米軍への基地提供を拒み、中華人民共和国から中距離弾道ミサイルDF-3を導入してアメリカの懸念を招いたこともあった[9]

1991年湾岸戦争では、中国からの弾道ミサイルの購入に貢献したハリド・ビン・スルタン(英語版)を多国籍軍のアラブ連合軍司令官に抜擢し[10][11]、多国籍軍に参加したエジプトホスニー・ムバーラクシリアハーフェズ・アサドと親密な間柄を築いた[12]。この際にアルカーイダの司令官だったウサーマ・ビン・ラーディンとの会談で聖地を有するサウジアラビアの国内にアメリカ軍を駐留させない代わりにムジャーヒディーンによってイラク軍からサウジアラビアを防衛する計画を提案されるも拒否したため[13]、アルカーイダは反米化して後にアメリカ同時多発テロ事件を起こすことになる。

1995年脳卒中で倒れるなど健康不安が続いていたために療養を続け、2005年8月1日にリヤド市内の病院で崩御した。王位は、弟のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ王太子が継承。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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