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ファッション
ファッション(英: fashion、英語発音: [?fa??n] ファシャン。仏: mode、フランス語発音: [m?d] モッド)とは、ある時点において広く行われているスタイルや風習のことである。
特に、人々の間で流行している服装を指すが、装いに関係する装身具、美容(理容、髪型、化粧)、香水などもファッションの範疇である。さらに広義には音楽などの文化やライフスタイルまでも包括しうる。
「ファッショナブル」や「おしゃれ」といった表現は、ある人や物が最新の、もしくは最新ではなくとも評判の良い様式に沿っているか否かを指し示すのに用いられる。 一般に人は地理条件、性別、年齢、社会階層、職業、思想や嗜好等を反映した服装を着用するが、それと同時に文化的に影響力のあるステータスを持つ人々が何か新しい、もしくはそれまでと違った衣服を着用し、他の人々がそれに追随しはじめた時、ファッションの流行は始まる。服飾の流行は全世界的に見られるが、法律や宗教、道徳等による服装規範が相対的に緩く、服装の選択肢も広い現代の西洋的な市民社会においては、その変動は特に激しく、またそれらの流行を利用した衣料品産業が巨大産業を形成している。最新のファッションに盲目的に追随する人は「ファッショニスタ」(fashionista)とか、ファッション中毒等と呼ばれる。また、ロラン・バルトによれば、さまざまなファッションを着て見せびらかすという営為の体系は、さまざまなファッション文をファッションの文法を用いて組み合わせるファッション言語とも見做せる[1]。 流行したファッションは、隆盛から衰退に至る一連のサイクルの中で消滅することが常であり[2]、また生産者や企業も頻繁なモデルチェンジを行って新しい流行を仕掛け、買い替え需要を促すが[3]、中には、以後も完全に一つのスタイルとして定着するものもある[4]。一方で、衣服は着用者の美意識をそのままあらわすものであり、個性を示す手段ともなっている[5]。着用する衣服は他者からの第一印象を決定づけるものであり[6]、これを利用して他者に自らの望むイメージを印象づけることも行われる[7]。この「流行への追随」と「個性の強調」は本質的に対立するが、どちらもファッションの根幹をなす重要な概念である[8]。
概要
ファッションの歴史マリー・アントワネットはファッションリーダーであった盛装したニュルンベルクの「ブルジョワ」女性(左)とヴェネツィア女性とを対比させたアルブレヒト・デューラーのドローイング。チョピン
西洋の衣服(洋服)の歴史については、洋服の歴史を参照「フランスのファッション」も参照 頻繁に変化するファッションという西洋の現象は概して古代には見られなかったし、他の大文明でも数十年前まではあまり類を見ないものであった。ペルシア・トルコ・日本・中国などへ旅した初期の西洋人旅行家たちは現地のファッションの変化のなさをしばしば報告したし、逆にそれらの他文化圏から西洋に来た観察者は西洋ファッションの目紛しいペースでの変化を西洋文化の不安定さと無秩序さの現れではないかと報告していた。日本の征夷大将軍の@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}老中[訳語疑問点]は1609年にスペイン人の来訪者に、日本の衣服は1000年以上もの間変化していないと語った[9]。しかしながら、例えば中国の明では漢服に頻繁に変化するファッションが存在したとする注目に値する証拠がある[10]。 古代ローマや中世イスラム帝国などでのように、経済・社会的な変革に伴って装いに変化が起こることはしばしばあるが、その後は長きに亘って大きな変化は起きなかった。例えば、ムーア人時代のスペインでは8世紀に、高名な音楽家Ziryab ヨーロッパでスタイルが連続的・加速度的に変化してゆく慣習が始まったのは14世紀中頃であるとかなりはっきりしており、ジェームズ・レーヴァー
古代
近代以前のヨーロッパ
15世紀にはファッションの変化するペースは大きく加速し、男性・女性のファッション、特に衣服と髪型は、どちらも等しく複雑かつ移り変わるものとなった。このおかげで、美術史家は図像の年代を高い信頼度と精度で特定できるようになり、15世紀の図像の場合では5年単位での特定もしばしば可能となった。ファッションの変化はまずヨーロッパの上流階級全体が非常に似通った衣服のスタイルをしていたのを細分化させ、各国は独自のスタイルを発展させるようになり、17-18世紀にはそれに逆行して再び類似したスタイルを強いる動きが現れ、最終的にはフランスのアンシャンレジームのファッションが支配的となった[16]。通常は富裕層がファッションを先導したが、近世ヨーロッパの富の増大によりブルジョワジーや農民までさえも流行を追うようになり、時としてはエリート階級が不快に感じる水準にまで至った――ブローデルはこれがファッションを変化させる主要な動機の1つと考えていた[17]。
16世紀のドイツもしくはイタリアの紳士の肖像画が10枚あれば10個の全く違った帽子が描かれているであろう。この時期は国ごとの違いが最も顕著であり、これはアルブレヒト・デューラーが15世紀末にニュルンベルクとヴェネツィアのファッションを(実録または合成で)対比させた記録にも現れている(右図)。16世紀末の「スパニッシュ・スタイル」はヨーロッパの上流階級でのファッションの共時性への回帰の始まりとなり、17世紀中葉の葛藤の後、フランスのスタイルが決定的に指導的位置を占め、18世紀にはこの過程は完結した[18]。