ファエンツァ
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ファエンツァ
Faenza
ポポロ広場に面したポデスタ館


旗紋章

行政
イタリア
エミリア=ロマーニャ
県/大都市 ラヴェンナ
CAP(郵便番号)48018
市外局番0546
ISTATコード039010
識別コードD458
分離集落#分離集落参照
隣接コムーネ#隣接コムーネ参照
公式サイトリンク
人口
人口58827 人 (2023-01-01 [1])
人口密度272.7 人/km2
文化
住民の呼称faentini
守護聖人主: Madonna delle Grazie;
副: San Pier Damiano, Santa Umilta, Beato Nevolone
祝祭日5月の第2日曜の前の土曜日
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯44度17分08秒 東経11度53分00秒 / 北緯44.28556度 東経11.88333度 / 44.28556; 11.88333座標: 北緯44度17分08秒 東経11度53分00秒 / 北緯44.28556度 東経11.88333度 / 44.28556; 11.88333
標高35 (13 - 220) [2] m
面積215.72 [3] km2
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} ファエンツァの位置

ラヴェンナ県におけるコムーネの領域
ポータル イタリア
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ファエンツァ(: Faenza)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県にある都市であり、その周辺地域を含む人口約59,000人の基礎自治体コムーネ)。県内ではラヴェンナに次ぐコムーネ人口を有する。

中世以来、陶器の生産地として知られる都市である。ルネサンス期にはマヨリカ焼きの技術を発展させるなど、ヨーロッパの陶芸において大きな役割を果たした。ファイアンス焼き(錫釉陶器、フランス語: Faience)はこの町の名に由来する。
名称

イタリア語以外では以下の名称を持つ。

ロマーニャ語: Fenza

地理ラヴェンナ県概略図
位置・広がり

ラヴェンナ県南西部に位置するコムーネ。エミリア街道沿いのイーモラフォルリの中間(フォルリから西北西へ15km、イーモラから東南東へ15km[4])に所在し、ロマーニャ地方の中央部にあたる。県都ラヴェンナからは西南西へ30km、州都ボローニャからは東南東へ48kmの距離にある[4]
隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。FCはフォルリ=チェゼーナ県所属。

ソラローロ - 北

コティニョーラ - 北

バニャカヴァッロ - 北東

ルッシ - 北東

フォルリ (FC) - 南東

ブリシゲッラ - 南西

リオーロ・テルメ - 西

カステル・ボロニェーゼ - 北西


気候分類・地震分類

ファエンツァにおけるイタリアの気候分類 (it) および度日は、zona E, 2263 GGである[5]。また、イタリアの地震リスク階級 (it) では、zona 2 (sismicita media) に分類される[6]
歴史
古代

この場所に造られた最初の集落は Faoentia という名であった。伝承によれば、この名はエトルリア人ケルト人の言葉に起源を持ち、ラテン語で Splendeo inter deos、「神々の中で輝く」という意味を持っているという。ローマ人たちはこの地をファウェンティア(Faventia)と呼び、都市を発展させた。

紀元前82年には、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスがこの地で グナエウス・パピリウス・カルボ(英語版)率いる民衆派(ポプラレス)の軍勢を破っている。

紀元1世紀後半以後、農業開発や産業発展(日常用の陶器や、レンガ、リンネル生産など)により、ファウェンティアはかなりの繁栄を見せた。
中世

542年、この地ではトーティラ率いる東ゴート族東ゴート王国)が、東ローマ帝国の軍勢を破った(ファウェンティアの戦い (Battle of Faventia) )。

中世初期、この都市は2世紀にわたって沈滞の時期を迎えたが、8世紀にはその繁栄を取り戻した。西暦1000年前後には、市政は司教からコムーネ(市民共同体)の手に移り、長い繁栄の時期を迎えた。1141年には選挙によって最初の執政官(コンスル)たちが選出され、1155年には司政官(ポデスタ) (Podesta) が市政府の頂点に立つこととなった。続いて生じた教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の抗争では、ファエンツァは当初皇帝派についていた。しかし1178年には立場を変え、教皇派のロンバルディア同盟に参加している。都市内部での権力抗争は、傭兵隊長(コンドッティエーレ)Maghinardo Paganiによる権力掌握を導き、彼は数年の間ポデスタおよび「カピターノ・デル・ポポロ」Capitano del Popolo に就任した。

14世紀初め、教皇派貴族のマンフレディ家 (it:Manfredi (famiglia)) は、以後2世紀にわたる都市統治をはじめた。15世紀後半のカルロ2世・マンフレディ (it:Carlo II Manfredi) のもとで、都市の拡張は頂点を迎え、中心部の景観を一新した。カルロ2世の跡を継いだ弟のガレオット (it:Galeotto Manfredi) は1488年に妻によって暗殺され、幼い息子のアストッレ3世 (it:Astorre III Manfredi) が跡を継いだが、1501年にチェーザレ・ボルジアがこの都市を占領、アストッレ3世は捕えられ、ローマで非業の死を遂げた。

ルネサンス期の15世紀末から16世紀にかけて、この町ではマヨリカ焼きの生産によって急速に発展を遂げた[7]。錫釉製陶はマヨルカ島からもたらされたが、この町の陶工たちは高温焼成による鮮やかな色彩の発色を可能とし、ルネサンス美術の影響を受けて鮮やかな色彩による絵付けが施されるようになった[7]


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