旗紋章
行政
国 イタリア
州 エミリア=ロマーニャ
県/大都市 ラヴェンナ
CAP(郵便番号)48018
市外局番0546
ISTATコード039010
識別コードD458
分離集落#分離集落参照
隣接コムーネ#隣接コムーネ参照
公式サイトリンク
ファエンツァ(伊: Faenza)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県にある都市であり、その周辺地域を含む人口約59,000人の基礎自治体(コムーネ)。県内ではラヴェンナに次ぐコムーネ人口を有する。
中世以来、陶器の生産地として知られる都市である。ルネサンス期にはマヨリカ焼きの技術を発展させるなど、ヨーロッパの陶芸において大きな役割を果たした。ファイアンス焼き(錫釉陶器、フランス語: Faience)はこの町の名に由来する。 イタリア語以外では以下の名称を持つ。 ラヴェンナ県南西部に位置するコムーネ。エミリア街道沿いのイーモラとフォルリの中間(フォルリから西北西へ15km、イーモラから東南東へ15km[4])に所在し、ロマーニャ地方の中央部にあたる。県都ラヴェンナからは西南西へ30km、州都ボローニャからは東南東へ48kmの距離にある[4]。 隣接するコムーネは以下の通り。FCはフォルリ=チェゼーナ県所属。 ファエンツァにおけるイタリアの気候分類 (it この場所に造られた最初の集落は Faoentia という名であった。伝承によれば、この名はエトルリア人とケルト人の言葉に起源を持ち、ラテン語で Splendeo inter deos、「神々の中で輝く」という意味を持っているという。ローマ人たちはこの地をファウェンティア(Faventia)と呼び、都市を発展させた。 紀元前82年には、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスがこの地で グナエウス・パピリウス・カルボ 紀元1世紀後半以後、農業開発や産業発展(日常用の陶器や、レンガ、リンネル生産など)により、ファウェンティアはかなりの繁栄を見せた。 542年、この地ではトーティラ率いる東ゴート族(東ゴート王国)が、東ローマ帝国の軍勢を破った(ファウェンティアの戦い (Battle of Faventia 中世初期、この都市は2世紀にわたって沈滞の時期を迎えたが、8世紀にはその繁栄を取り戻した。西暦1000年前後には、市政は司教からコムーネ(市民共同体)の手に移り、長い繁栄の時期を迎えた。1141年には選挙によって最初の執政官(コンスル)たちが選出され、1155年には司政官(ポデスタ) (Podesta
名称
ロマーニャ語: Fenza
地理ラヴェンナ県概略図
位置・広がり
隣接コムーネ
ソラローロ - 北
コティニョーラ - 北
バニャカヴァッロ - 北東
ルッシ - 北東
フォルリ (FC) - 南東
ブリシゲッラ - 南西
リオーロ・テルメ - 西
カステル・ボロニェーゼ - 北西
気候分類・地震分類
歴史
古代
中世
14世紀初め、教皇派貴族のマンフレディ家 (it:Manfredi (famiglia)) は、以後2世紀にわたる都市統治をはじめた。15世紀後半のカルロ2世・マンフレディ (it:Carlo II Manfredi) のもとで、都市の拡張は頂点を迎え、中心部の景観を一新した。カルロ2世の跡を継いだ弟のガレオット (it:Galeotto Manfredi) は1488年に妻によって暗殺され、幼い息子のアストッレ3世 (it:Astorre III Manfredi) が跡を継いだが、1501年にチェーザレ・ボルジアがこの都市を占領、アストッレ3世は捕えられ、ローマで非業の死を遂げた。
ルネサンス期の15世紀末から16世紀にかけて、この町ではマヨリカ焼きの生産によって急速に発展を遂げた[7]。錫釉製陶はマヨルカ島からもたらされたが、この町の陶工たちは高温焼成による鮮やかな色彩の発色を可能とし、ルネサンス美術の影響を受けて鮮やかな色彩による絵付けが施されるようになった[7]。