『ファウスト』は、講談社が不定期に刊行している文芸雑誌。2003年9月創刊。キャッチコピーは「闘うイラストーリー・ノベルスマガジン」。
2011年9月末に最新号となるVol.8が刊行され、Vol.9での"解散"を宣言している。
途中で『パンドラ』が枝分かれした他、別冊『コミックファウスト』が刊行された。また、台湾・韓国・アメリカでもそれぞれ現地語版の『ファウスト』が刊行されている。 2002年の第一回文学フリマで刊行された同人誌『タンデムローターの方法論』を原型に、講談社の創業100周年(2009年)を記念する新雑誌企画開発プロジェクトの一環として創刊された[1]。編集長は企画提案者の太田克史(創刊当時は講談社文芸図書第三出版部に在籍)が務め、初期は1人で編集を行っていた。判型は新書サイズで、刊を重ねるにつれてページ数が増したり、分冊刊行された。 内容は書き下ろしの短編小説を中心に批評・漫画・カラーイラストーリー・エッセイ・インタビュー記事などで構成される。小説の執筆者は『タンデムローターの方法論』同人メンバーで、メフィスト賞受賞者でもある舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新が中心となり、のちに乙一、滝本竜彦、北山猛邦、浦賀和宏、上遠野浩平、渡辺浩弐、ビジュアルノベルのシナリオライターとして評価を受けていた奈須きのこ、竜騎士07らも参加した。 立場上は太田が在籍していたミステリ系文芸誌『メフィスト』から枝分かれする形だったが、ビジュアル的な要素を重視する編集コンセプトもあり、広義のライトノベル雑誌とされている。しかし、執筆者が以上のような出自であるため、掲載作品は同時代のライトノベルとは異なるものが多く、掲載作品の一部は「ファウスト系」と呼ばれるようになった。また、小説のジャンルとして「新伝綺」を提唱していた。 当時のインターネットミームである「セカイ系」の代表的な雑誌と評され、誌上の批評・評論でも積極的に扱っていたが、編集方針自体は一線を画していた。 編集長の太田は、ライトノベルの世界から直接的に『ファウスト』の成立に影響を与えた原点となる作家に、上遠野浩平を挙げている[2]。 創刊当時から東浩紀、笠井潔、斉藤環らを起用し、作家を批評・評論面からもサポートしていた。創刊号には兄弟誌の立ち位置であった『新現実』(角川書店)を主宰していた大塚英志の評論も掲載される予定だったが、舞城王太郎が批評家から絶賛されている状況を批判した内容だったことが問題視され、不掲載となった(後に『早稲田文学』2004年1月号に「世界がもし、舞城王太郎な村だったら。」として掲載)。 小説ごとにオリジナルのフォントを用意し、また表紙が折り畳み式になっているなど、雑誌全体のデザインに工夫が凝らされている一方で、目次にページ数が明示されていなかった。 出版ビジネスの観点からは、再販制度・委託制度下で維持されている出版物流通のボトルネックを利用し、文芸雑誌に講談社が得意とする大量消費向けの週刊誌・漫画雑誌の手法を持ち込んだ点に特徴があった。流通上の分類としてはムックであり、形態別コードムック誌の雑誌コード「雑誌 63899-48」とISBNの両方が付番されていた。 Vol.7刊行後、太田は星海社を設立したが、誌名が『メフィスト』からの派生で、講談社が『メフィスト』を商標登録していることもあり、Vol.8は雑誌コードの表示がなく、単独の書籍扱いとなった。また、Vol.9は講談社を離れ、星海社からの出版になることが編集後記で語られていた。 創刊時の『ファウスト』を語るキーワードとして、編集長の太田克史は「ひとり編集」「イラストーリー」「本物のDTP」という3つの言葉を挙げている[3]。 太田は社内公募の際、「ひとり編集部」という提案をした。1人だけで編集をおこなうことで作品や編集方針へのこだわりを十二分に誌面へ反映することが目的であった。これまでにない編集体制であったため、講談社内でもさまざまな意見が飛び交ったが、太田の強い熱意によりこの編集体制での刊行となった。ページ数が膨大に増えた後期は講談社BOXの編集部員や外注編集者の手を借りていたが、初期の数冊は「ひとり編集部」で作られていた。 キャッチコピーで標榜されている通り、小説には必ずイラストがつく。また巻末には漫画を掲載し、この雑誌独自の「カラーイラストーリー」を巻頭に配すなど、ビジュアル的な要素も重視していた。 2000年代のライトノベルは、電撃文庫が緒方剛志、黒星紅白、原田たけひとなど、アニメ業界やゲーム業界で活躍する若手イラストレーターの登用で躍進し、MF文庫Jがより大衆化された美少女路線で追随していたが、『ファウスト』はそれらに比べて対象年齢が高く、太田が1990年代の「対戦型格闘ゲーム」ブーム経験者だったこともあって、当時のゲーム業界で活躍していた中堅イラストレーターや講談社の青年漫画誌で執筆していた漫画家が多く起用され、絵柄もリアル路線や現代美術系に寄っていた。 小説では美少女ゲームのシナリオライターが多く起用されていたが、イラストレーターは奈須きのこの共作者でもある武内崇とこやまひろかずを除くと、Vol.7の筒井康隆「ビアンカ・オーバースタディ」でいとうのいぢが起用されるまで、いわゆる美少女ゲーム系の美少女キャラクターを描くイラストレーターの起用は皆無だった。また、いとうのいぢの起用自体、同時代的な「ライトノベル」のパロディであることを意図した起用であり、本来の編集方針からすると例外的ケースだった。 編集長の太田は従来のDTP(デスクトップパブリッシング、卓上出版)について「安かろう悪かろう」という印象を抱いていた。しかし、京極夏彦の「InDesignで小説を執筆し、PDFで入稿する」という宣言、圧倒的なボリュームがある小説を、自らが版面をコントロールすることで一気に読ませてしまう「京極マジック」を体験した結果、編集者も追いつかなければならないと思い、DTPの勉強を始めた。そして、『ファウスト』ではDTPへの挑戦をより顕著に行うこととなった。『ファウスト』では、すべての組版にAdobe InDesignが使われている[4]。 それまでの雑誌は決められたフォーマットにテキストを流し込むスタイルだったが、『ファウスト』では各作品ごとにフォントを変えるなどして、「新しい雑誌とは何か?」を模索している。フォントについても、太田が「一番フォントについて知っている人は誰かと探したら紺野さんだった」と語る凸版印刷の紺野慎一に“フォントディレクター”を依頼し、各作品ごとにフォントの提案を受けている。『ファウスト』以降、講談社内の多くの雑誌・書籍の製作環境は順次DTPへ移行していくことになる[5]。
概要
編集方針
ひとり編集
イラストーリー
本物のDTP
刊行状況
創刊以前
直接の母体となったのは、講談社文芸図書第三出版部が発行していた小説誌『メフィスト』だが、売上不振から当時の3冊ルールに抵触し、講談社ノベルスから新刊を出すことができなくなっていた佐藤友哉に小説を発表する場を与える名目で、2002年7月に大塚英志と東浩紀の2人が編集する文芸誌・批評誌として創刊された『新現実』(角川書店)と、2002年11月の第一回文学フリマで販売された同人誌『タンデムローターの方法論』が、本誌の原型となっている。特に後者は、佐藤友哉と西尾維新が小説を書き、舞城王太郎が挿絵を付けた太田克史編集のコピー誌で、これに周辺の若い世代の書き手が加わっていくことにより、初期『ファウスト』のコンセプトが固まっていく。
創刊からコミックファウストまで
2003年9月5日にVol.1が発売され、9月20日には創刊を記念して、紀伊國屋サザンシアター(新宿)で「激変する文戟Bファウストフェスティバル2003」が行われた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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