ファイル:松笠菱(細川向かい松).jpg
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松笠菱(細川向かい松).jpg ‎(450 × 468 ピクセル、ファイルサイズ: 50キロバイト、MIME タイプ: image/jpeg)



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概要

解説松笠菱(細川向かい松).jpg日本語: 細川京兆家 松笠菱

細川京兆家 松笠菱 のイラスト素材は、家紋、武将、細川氏のタグが含まれています。無料の会員登録で、カンプ画像のダウンロードや画質の確認、検討中リストをご利用いただけます。京兆家家紋松笠菱(細川向かい松)細川京兆家が使用していた家紋。

細川氏の宗家・嫡流であり、摂津・丹波・讃岐・土佐などの守護職を世襲したと同時に、代々室町幕府の管領職に任命を受けたため、管領細川家(または細川管領家)ともいう。細川京兆家の「京兆」(けいちょう)とは右京大夫の唐名「京兆尹」のことであり、当主が代々右京大夫の官位に任ぜられたことに由来する。またこの官位から細川右京兆とも呼称される。前述の通り、本来細川氏嫡流で権勢を誇っていた細川清氏の失脚・滅亡後、清氏を討伐し管領として幕府と細川氏隆盛の礎を築いた細川頼之(清氏の従弟)に始まり、清氏の系統に代わって頼之の系統が細川氏の本家・嫡流となった。

歴代当主の通字として、頼之の跡を継いだ弟の細川頼元に因む「元」(もと)、一部の人物は頼之に因む「之」(ゆき)の字を使用している。

頼之は中国管領、四国管領を歴任し、讃岐・阿波・土佐など四国の分国化を進めた。中央では管領となって執政し、幼少の将軍・足利義満を補佐して幕政を統轄した。頼之は義満からの信任は厚かったものの、天授5年 / 康暦元年(1379年)の康暦の政変で一旦失脚する。しかし、領国の四国に渡り阿波を中心とする分国支配を堅持することにより敵対勢力を退け、やがて中央政界に復帰した。

頼之自身は僧籍を理由に、実弟で養子(頼之に実子はいなかった)の細川頼元を京都の周囲を固める丹波・摂津の守護に推し、さらに管領にも推した。京兆家は同じく足利一門の斯波・畠山両氏とともに将軍を補佐する三管領(三管四職)、また室町幕府宿老として重きを成していく。

室町時代中後期、畠山持国との権力闘争に勝利した細川勝元は、3度にわたり計23年間も管領職を歴任し、実力者の山名宗全(持豊)と手を結び畠山氏を弱体化させた。しかし将軍家や畠山家の家督相続問題などで畠山義就を後押しする宗全と畠山政長を後援する勝元は対立、東軍の総帥として足利義視を推戴して、宗全率いる西軍との間で11年に及ぶ応仁の乱を引き起こし、その途中に病没する。

戦国時代前期の畿内は、将軍と京兆家を中心とした争乱が続く。勝元の子・細川政元は、明応の政変で10代将軍・足利義材(後に義尹、義稙と改名)を廃立、11代将軍・足利義澄を擁立し、幕府の実権を掌握した。政敵の畠山政長も討ち、畠山・斯波両氏は没落し、京兆家が以後管領職を独占するようになり、細川政権(京兆専制)を打ち立て、畿内周辺にも侵攻し勢力を拡大して細川京兆家の全盛期を築く。しかし政元は修験道に心頭して女性を寄せ付けなかったため妻帯せず実子がなく(弟もいなかった)、澄之・澄元・高国の3人を養子に迎えたため(高国は後付けで政元存命時の養子は澄之澄元2人だったともされる。また、高国が実家の野州家を相続したために養子縁組が解消されたとする説[2]もある)、家督争いが生じ、政元は澄元を後継にと考えたものの、永正4年(1507年)、不満を持った澄之派の配下に暗殺される。政元の死をもって頼元以来続いた細川京兆家の嫡流の血筋は途絶えることとなった。

澄之は京兆家家督を継ぐが、その後すぐに澄元と高国が結託して澄之を討ち、澄元が家督を継ぎ管領となる。しかし、政元暗殺を好機とみた前将軍・足利義尹(義稙)を擁する西国の大大名大内義興(周防守護)が上洛軍を起こし、澄元と不仲になった高国がこれと結びつき、翌永正5年(1508年)に高国は将軍義澄と澄元を京都から近江国(後には阿波国)へと追い落として義尹(将軍復帰)と義興(管領代に就任)を迎え入れ、家督を継ぎ管領となった。その後も高国派と澄元派に分裂し長期に渡って対立を続けることとなる(両細川の乱)。

約十年在京しその軍事力で支えていた大内義興が細川高国と争っていた明貿易権益を得て周防国に帰国した後も、高国は一時澄元(とその重臣の三好之長)に敗れたとき澄元側についたこともある将軍義稙と不仲になって見限り、新たに足利義晴(病死した義澄の子)を将軍に擁立するなど、管領として幕政を握り京周辺を支配下に置いていた。大永5年(1525年)、高国の隠居後に子の細川稙国が家督を継ぎ管領を継承したが、半年ほどで病死したため、翌年に畠山義堯が管領となり、細川京兆家による管領の独占継承は一旦途切れたが、幕府の実権は京兆家家督を再承した高国が引き続き持った。

大永6年(1526年)、高国が家臣を謀殺したことをきっかけに高国への反乱が起こり、その動きに乗じて今度は病死していた澄元の子の細川六郎(後の晴元、この時13歳)が、軍を実質的に仕切る家宰の三好元長(之長の孫あるいは子)とともに、将軍義晴を擁する高国に対し足利義維(義晴の兄弟)を擁して阿波国から畿内へ侵攻して高国を追い落とし、堺幕府(堺公方)を樹立し、さらに享禄4年(1531年)に高国を滅ぼし(大物崩れ)、その大きな功労者であった台頭する三好元長も討ち、和睦した将軍足利義晴を擁して家督を継ぎ管領に就任、幕政と京都を握る。その後も、晴元は高国の弟の細川晴国や高国の養子の細川氏綱や宗教一揆の法華宗などとたびたび争っていたが、天文18年(1549年)、元長の子で実力者となっていた配下の三好長慶に下克上され近江国へと追われ、細川政権は崩壊した。

主君晴元から対立する氏綱側に寝返った長慶は名目上氏綱を推戴し、氏綱が京兆家家督を継ぐが、氏綱は実権を握れず長慶の傀儡状態となり、三好政権へと取って代わられることとなった。晴元はその後も将軍・足利義輝を擁して長慶との争いを続けるがかなわず、永禄4年(1561年)に長慶と和睦し、その2年後に没した(翌年氏綱も没する)。晴元失脚後の細川京兆家はかつての権勢をすっかり失って衰退し、代わって京・畿内は織田信長が上洛するまで三好氏の勢力下となる。また、これにより政元暗殺以降長年続いた細川京兆家を二分する内訌も終結に向かうこととなった。

なお、戦国期の室町幕府研究の進展の中で明応の政変以降の細川京兆家の当主が代々管領を務めたとする話は軍記物に由来する創作に過ぎず、実際には重要な儀式の際にのみに在任していた(京兆家は軍事力で京都周辺を掌握していたため、却って幕府官職を必要とはしなかった)とする見方が有力説として浮上し、大永元年(1521年)に足利義晴の元服を終えた細川高国が管領を辞職してから室町幕府滅亡まで管領職はずっと空席のままであったとされている(従って、この見方に立つと稙国・晴元・氏綱および畠山義堯が管領に就任した事実は否定される)[3][4]。


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