ファイブ・ポインツ_(マンハッタン)
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この項目では、ニューヨーク市マンハッタン区にかつて存在した地区について説明しています。クイーンズ区ロング・アイランド・シティにかつて存在した建物については「ファイブ・ポインツ」をご覧ください。

ファイブ・ポインツ
Five Points
ジョージ・カトリンが描いたファイブ・ポインツ交差点(1827年)。アンソニー通り(後のワース通り)が左へ、オレンジ通り(後のバクスター通り)が右へ、そしてクロス通り(後のパーク通り)が前方を左右に走っている。アンソニー通りの左にかけての荒廃した「テネメント(英語版)」(棟割長屋)は、1832年にリトル・ウォーター通りに至るまで取り壊され、空の三角形跡地が「パラダイス・スクエア」として知られるに至った。
ニューヨーク市内、ファイブ・ポインツと呼ばれた一帯(線内)。
国名アメリカ合衆国
州名ニューヨーク州
市名ニューヨーク市
区名マンハッタン区
コミュニティ委員会第3コミュニティ委員会

「ファイブ・ポインツ」(または「ザ・ファイブ・ポインツ」、英語: Five Points)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ロウアー・マンハッタンに19世紀に存在した地区である。当地区の一部はコレクト・ポンド(英語版)として知られた淡水池を埋め立てることで生み出され、西のセンター通り、東のバワリー通り、北のキャナル通り、南のパーク通りが大まかな境界線であった。ファイブ・ポインツは人口過密で、病が蔓延し、犯罪が横行するスラムとして国際的に悪評が広まっており、70年以上に渡って存在した[1]

20世紀に入ると、ファイブ・ポインツ地域は次第に再開発され、各通りは様相を変え廃道になったものもある。現在では西と南を、連邦・州・市の行政機関が建ち並ぶシビック・センターが占める。東と北にかけては、以前のファイブ・ポインツ地区は現在はチャイナタウンの中に位置している。
「ファイブ・ポインツ」の名称

交差する2本の通りと、その交差点まで伸びた第3の通りが、5つの角あるいは「ポイント」を形成する。1809年頃にアンソニー通りが東へ、クロス通りとオレンジ通りの交差点まで延ばされた。結果として、周囲の地区がファイブ・ポインツと呼ばれるようになった[2]1854年には3本の通りがワース通り(英語版)、パーク通り、バクスター通り(英語版)と改名された[3]1868年にはワース通りは再び東方向へ、5つの角がある交差点からチャタム・スクエアにまで延長されて、6番目の角が追加された[4]。それ以来、バクスター通りは交差点の南側が消滅し、クロス通りは交差点の両側で消滅した。こうして、バクスター通りとワース通りの今日残る交差点には、2つの角のみが存在している[5]
コレクト・ポンド1846年に公刊された地図が、1793年当時の通りと、1811年までに埋め立てられたコレクト・ポンド(英語版)を示す。点線で記された通りは、1793年から1846年にかけて設けられた。

マンハッタンにヨーロッパ人入植が始まって200年あまり、増加する人口への主要な飲料水の源がコレクト・ポンド(英語版)(もしくはフレッシュ・ウォーター・ポンド)であり、魚も豊富であった[6][7]

池はおよそ19ヘクタール(48エーカー)を占め、18メートル(60フィート)の深さがあった[6]。地下水脈から水の供給があり、谷に位置し、北東部にはベイヤード山(標高34メートルもしくは110フィートで、ロウアー・マンハッタンの最も高い丘)があった。池から北へ、次いで塩沼(当地は干拓の実施後に、「リスペナード草地」の名を持つ草地となった)を通過して西に向かい、ハドソン川へ至る流れと、池の南東部から発して東方向にイースト川へ向かう別の流れがあった。18世紀には、夏は行楽地、冬はスケート場として大勢の人で賑わっていた[8]コールタード醸造所(1792年頃に創建)は、1837年の財政危機と続く経済不況を受けて、後に「オールド・ブルワリー(英語版)」として知られるテネメント(英語版)へと改装された[9]

しかし、大量の水を必要とする事業所も立地するようになった。これはコールタード醸造所(英語版)、ニコラス・ベイヤード(英語版)の屠畜場[10]、南東岸にある無数の皮なめし場、南南西岸のポット・ベイカーズ・ヒルにおけるドイツ系移民ヨハン・ヴィレム・クロリウス(英語版)とヨハン・レメイの陶器製作所などであった[11]。池を取り巻いた各事業から汚染された廃水が池に垂れ流され、水質汚染が顕著となり、付近の住人の健康被害の危険が高まった。

ピエール・シャルル・ランファンが、池を浄化し周囲を公園化するという提案をしたが、彼の提議は退けられ、池の埋め立てが決定した。埋め立ては1811年に完了し、間もなく中産階級向けの家屋が建てられた[6][12]

埋め立ての施工はずさんなものであった。埋められた植生はメタンガス分解作用の副産物)を発し始め、地盤沈下して多くの建物に傾きが生じた。また、低地にもかかわらず雨水管などの排水設備がなかったため、未舗装の通りはしばしば人間や動物の排泄物と混淆した30pの深さのに埋まり、よどんだ水たまりが繁殖した。

中産・上流階級の住民は大半が地域から逃れてゆき、ファイブ・ポインツは1820年代の初頭から到着し始めた貧しい移民の居住地となった。1840年代には大飢饉から逃れてきたアイルランド系カトリック教徒の流入がピークを迎えた[13]
スラムファイブ・ポインツ地区のマルベリー・ベンド(英語版)(ジェイコブ・リースによる記録、1896年頃)で、クロス通りのすぐ北側から北を望む。左のテネメント(英語版)群は壊されて、マルベリー・ベンド・パーク(現在のコロンバス・パーク(英語版))が設けられた。右に見える2棟のテネメント、前景のマルベリー通り46番地(1886年頃)とベンド横のマルベリー通り48から50番地は、今も当地に建っている[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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