ピー・ウィー・リース
[Wikipedia|▼Menu]

ピー・ウィー・リース
Pee Wee Reese
ボウマン社のリースのベースボールカード(1954年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ケンタッキー州ミード郡
生年月日1918年7月23日
没年月日 (1999-08-14) 1999年8月14日(81歳没)
身長
体重5' 10" =約177.8 cm
160 lb =約72.6 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手
プロ入り1938年
初出場1940年4月23日
最終出場1958年9月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


ブルックリン・ドジャース
ロサンゼルス・ドジャース
(1940 - 1942, 1946 - 1958)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1984年
選出方法ベテランズ委員会選出
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ピー・ウィー・リース(英語: Pee Wee Reese, 本名:ハロルド・ピーター・ヘンリー・リース(Harold Peter Henry Reese, 1918年7月23日 - 1999年8月14日)は、アメリカ合衆国ケンタッキー州出身の元プロ野球選手遊撃手)。右投右打。

愛称の"ピー・ウィー"("Pee Wee")は、子供の頃ビー玉遊びが上手かったことに由来するという。1950年代のブルックリン・ドジャースで、ジャッキー・ロビンソンと強固な二遊間を形成していた。
経歴
球歴

1938年にアマチュアとしてピッツバーグ・パイレーツと契約、翌年レッドソックスを経てブルックリン・ドジャースに入団する。翌1940年にメジャーリーグに昇格。84試合に出場し打率.270をマーク、遊撃手のレギュラーの座を得る。1941年には自身初めてのワールドシリーズに出場。1942年のシーズン後、3年間海軍に従軍しチームを離れる。

1946年終戦と共に現役復帰、リースはチームのキャプテンとしてチームを牽引する立場となる。1948年からは、前年に入団したジャッキー・ロビンソンとの二遊間コンビを形成し、毎年90以上の併殺をとるなど、守備面での活躍が目立った。また1949年には132得点を挙げてリーグ得点王、1952年は30盗塁で盗塁王を獲得した。1952年5月21日の試合では1イニング3出塁を達成、ナショナルリーグではこれが20世紀唯一の記録となった。

俊足巧打でありながら100四球を2度クリアするなど選球眼が鋭く、四死球が多かった。ワールドシリーズは1953年までに5度出場しているが、5度ともニューヨーク・ヤンキースの前にドジャースは敗退。初めてヤンキースを破ってワールドシリーズを制したのは2年後の1955年、6度目の出場の時であった。

1956年には7度目のリーグ制覇と共にルー・ゲーリッグ賞を受賞、リース自身はドジャースがロサンゼルスに移転した1958年シーズンを最後に現役を引退した。
ジャッキー・ロビンソンの受容

リースは当時のチームキャプテンとして、ジャッキー・ロビンソンのメジャーリーグでの成功に一役買っている。幼い頃から間近で人種差別を見てきたこともあり、ロビンソンにも礼儀正しく振る舞ったという。リースはロビンソンの入団直前、他の所属選手から出ていた入団拒否の嘆願書への署名を拒否する。

1947年にロビンソンが入団すると、リースはチームメイトの前で真っ先にロビンソンと握手をして見せた。また、遠征先の球場でロビンソンが誹謗中傷を受けていると、リースは守備時にロビンソンに歩み寄り、黙って肩を組んで観客席を見回した。この光景を目の当たりして観客の誹謗中傷は徐々に減っていったという。後日ロビンソンはリースについて「彼は何度も自分を助けてくれた。しかし彼はそのことを自分の手柄にしようとはしなかった。」と、リースの人となりを語っている。1948年にロビンソンが二塁手のレギュラーに定着すると、彼らはロビンソンが引退する1956年までドジャースの二遊間を形成し、チームのリーグ制覇を支えた。

後年、リースとロビンソンの関係を元に「チームメイト」という題の児童書が出版されている(ISBN 0-15-200603-6)。
引退後

現役引退後、リースは1960年から1965年までディジー・ディーンと共にCBSテレビで、また1966年から1968年まではNBCで野球実況解説を務めていた。NBCのラジオ放送で何試合かワールドシリーズの実況を行っている。解説者活動は1972年まで行い、退任後は故郷ケンタッキー州ルイビルにあるヒラリック&ブラズビー社に勤めていた。リースの背番号「1」。
ロサンゼルス・ドジャースの永久欠番1984年指定。

1984年ベテランズ委員会の選考によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出。同年はドジャースの後輩、ドン・ドライスデールも殿堂入りを果たしている。また、殿堂入りを記念して古巣ドジャースはリースの背番号『1』を永久欠番に指定している。

1999年8月14日、肺癌のためケンタッキー州ルイビルで死去。
詳細情報
年度別打撃成績

















































O
P
S

1940BRO
LAD
8436131258858451162815--3--45--1421.272.366.372.738
19411526745957613623521754610--8--68--3566.229.311.294.605
19421516555648714424531875315--9--82--0558.255.350.332.681
194615264454279154161052056010--14--87--17110.284.384.378.762
19471425904768113524412203737--8--104--2677.284.414.426.841
19481516545669615531492217525--9--79--06316.274.363.390.753
1949155743617132172273162537326--6--116--4595.279.396.410.806
195014163353197138215112025217--10--91--1627.260.369.380.750
1951154711616941762081024284201412--81--25719.286.371.393.763
19521496605599415218862045830515--86--05916.272.369.365.734
1953140625524108142257132206122615--82--46115.271.374.420.794
1954141661554981713581025269858690--36220.309.404.455.859
19551456525539915629410223618713578136022.282.371.403.774
19561476485728514719291974613415456116914.257.322.344.667
19571033783303374311822952623911327.224.306.248.555
1958591811472133724561712622600153.224.337.381.718
通算:16年2166947080581338217033080126303888523245157191210326890176.269.366.377.743


各年度の太字はリーグ最高

BRO(ブルックリン・ドジャース)は、1958年にLAD(ロサンゼルス・ドジャース)に球団名を変更

タイトル

 
盗塁王:1回(1952年)

記録 

 最多
得点:1回(1949年)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:65 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef