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出典検索?: "ピーリー・レイース"
ピーリー・レイース(Piri Reis、ピリー・レイース、ピリ・レイースとも表記される。「レイース」は「提督」の意[1]。もしくはアフメット・ムヒッディン・ピリ Ahmet Muhiddin Piri, もしくはアフメット・イブニ・エル=ハジュ・メフメット・エル=カラマニ Ahmet ibn-i el-Hac Mehmet El Karamani[2] 1465年? - 1554年)は、オスマン帝国海軍の軍人[3]。世界地図[4]、航海案内書の作者として知られ、16世紀のオスマン帝国(トルコ)が到達した海洋知識の到達点を示す[5]。 ダーダネルス海峡に面した港町ゲリボル(ガリポリ)の出身で、本名はアフメト・ムヒッディンという。父ハジ・メフメトの死後、叔父でオスマン帝国艦隊の提督だったケマル・レイースに引き取られ、オスマン帝国海軍の軍人となった[6]。若い頃叔父に従ってスペインに併合されつつあったアンダルスのムスリムを救援するためイベリアに派遣された艦隊に参加したという[7]。 1499年から1502年まで続いたオスマン帝国とヴェネツィア共和国の戦争に参加、シチリア島、コルシカ島、サルデーニャ島、フランス南岸などの海域での作戦に従事し、「船長」を意味するレイースの称号を与えられた。1516年から1517年にはシリア、エジプト海域に出動し、セリム1世のマムルーク朝征服を援護、1522年にはスレイマン1世のロドス島遠征に参加した。バルバロス・ハイレッディンが帝国海軍司令官となると、その麾下の提督として活躍する[8]。 1547年、老練の提督となっていたピーリー・レイースはスレイマン1世によって紅海に駐留するインド洋方面艦隊の司令官に任命され、1551年にアデンを征服、アラビア海、ペルシア湾に出動してマスカット、ホルムズ海峡を攻撃し、ポルトガルの進出を牽制した。しかし、あるときペルシア湾のバスラ沖にポルトガル艦隊が現れたとの報を受け出撃したが、バーレーン近海でガレー船一隻を沈没させたため攻撃を中止しエジプトに帰投したことから戦線放棄の罪に問われ、1554年にスレイマン1世の命によりカイロで処刑された[9]。 ピーリー・レイースは、海軍軍人としての職務のかたわらで詳細な世界地図と航海案内書キターブ・バフリエ (it:Kitab-? Bahriye
生涯
著書ピーリー・レイースのキターブ・バフリエKitab-? Bahriyeよりヨーロッパと地中海と北アフリカの地図
関連項目
ピーリー・レイースの地図[12]
オスマン帝国のインド洋遠征
南アラビア遠征 (1546年)
バルバリア海賊
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ピーリー・レイースに関連するメディアがあります。
脚注[脚注の使い方]^ 朱鷺田祐介 2005, p. 114.
^ ASIOS 2010, p. 157.
^ 学研教育出版 2014, p. 136.
^ a b 藤田元春 1942, p. 153.