ピート・ドハーティ
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ピート・ドハーティ
2007年
基本情報
出生名Peter Doherty
生誕 (1979-03-12) 1979年3月12日(45歳)
イングランドノーサンバーランド ヘクサム
出身地 イングランド ロンドン
ジャンルインディー・ロック
ガレージロック・リバイバル
ポストパンク・リバイバル
職業ミュージシャンソングライター
担当楽器ボーカルギターベースハーモニカメロディカピアノオルガン
活動期間1997年 -
共同作業者ザ・リバティーンズ
ベイビーシャンブルズ
公式サイト ⇒The Libertines.org.uk
Babyshambles.net

ピーター・ダニエル・ドハーティ(Peter Daniell Doherty、1979年3月12日 - )は、イギリス出身のミュージシャン詩人ザ・リバティーンズでの音楽活動によって最もよく知られている。ベイビー・シャンブルズボーカリストスーパーモデルケイト・モスとの交際や、周知のところとなった薬物問題などによって、タブロイド紙やニュース・メディアを大々的に賑わせることとなった。
幼少期

ピート・ドハーティはイングランドノーサンバーランド州ヘキサムで、父方からユダヤ系の血を引く母ジャクリーンとアイルランド系の父ピーター・ジョン・ドハーティの間に生まれた3人の子供の第2子として生を受けた[1][2]。父がイギリス陸軍士官だったため、いくつかの陸軍駐屯地で育つこととなり、母や保母、2人の姉妹エイミー・ジョーやエミリーらとともにカターリックやベルファスト西ドイツ、ベッドワース、ドーセットラルナカなどさまざまな駐屯地で幼少期を過ごした。学業成績は優秀で、ベッドワースのニコラス・チェンバレン中等学校におけるGCSE(General Certificate of Secondary Education 、中等教育修了一般試験)では11科目中5科目でA*(Aスター、最高点)[3]、Aレヴェル(General Certificate of Education - Advanced Level 、高校卒業資格試験)では4科目ともパスしたうち2科目でA[4]と、優秀な成績を収めている。16歳の時には詩のコンクールで入賞し、ブリティッシュ・カウンシルの主催したロシアへの訪問旅行にも参加した。

Aレヴェルの後に彼はロンドンにいた祖母のフラットへ移り(そうなる運命だと思っていたと彼は語っている)、ウィルズデン墓地で墓堀人夫の職に就くこととなったが、ほとんどの時間は墓石の上に座って本を読んだりものを書いたりして過ごした[5]

彼はロンドン大学を構成するカレッジの1つであるクイーン・メアリーで英文学を専攻したが、最初の1年で中退した[5]。大学を離れてから、彼は友人のミュージシャン、カール・バラーとロンドンのフラットへ居を移した。バラーは、ドハーティの姉とブルネル大学でクラスメートであった。2004年、ドハーティはリバティーンズの仲間カール・バラーとともに、NMEが最もクールなアーティストを選出する Cool List の第1位に輝いた。翌年も彼は第6位に名を連ね[6]、2006年5月10日には同じくNMEの世論調査による「偉大なロック・ヒーロー50人」の第2位に選ばれた[7]
経歴
ザ・リバティーンズ2005年撮影詳細は「ザ・リバティーンズ」を参照

ドハーティとバラーは1990年代後半にザ・リバティーンズという名のバンドを結成し、2002年にデビュー・アルバム『リバティーンズ宣言』をリリースするやいなや、メインストリームでの広範な成功を収めはじめた。

バンドは批評家筋から高く評価されて商業的にも成功し、カルト的とさえいえる支持を得た。特にドハーティは、ここ数年のイギリスの音楽シーンに現われた最も有望なソングライターの1人としてファンや批評家からの賞賛を浴びた。しかし、ドハーティの深刻さを増すドラッグ問題がバンドに亀裂をもたらした。2003年に、ドハーティがバラーの留守宅に押し入ったため強盗容疑で収監されるという事件が起こったのである[8][9]

初めこそ2人はこの事件のために仲違いをしたが、ドハーティが入獄中に和解した。ドハーティに対する当初の宣告は6か月であったが、2か月に短縮された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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