ピート・タウンゼンド
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、イギリスのギタリストについて説明しています。その他の用法については「ピーター・タウンゼント」をご覧ください。

ピート・タウンゼンド
Pete Townshend
ピート・タウンゼンド(2012年)
基本情報
出生名ピーター・デニス・ブランドフォード・タウンゼンド
生誕 (1945-05-19) 1945年5月19日(78歳)
出身地 イングランド ロンドン
ジャンルロック
ハードロック
アート・ロック
ポップ・ロック
職業ソングライター
ミュージシャン
担当楽器ギター
ボーカル
ベース
ハーモニカ
ドラムス
キーボード
バンジョー
活動期間1960年 - 現在
レーベルトラック・レコード
ポリドール・レコード
アトランティック・レコード
アトコ・レコード
デッカ・レコード
ライコディスク
共同作業者ザ・フー
ディープ・エンド
ロニー・レーン
サンダークラップ・ニューマン
公式サイト ⇒http://www.thewho.com/index.php
著名使用楽器
リッケンバッカー・330
フェンダー・ストラトキャスター
ギブソン・SG・スペシャル
ギブソン・レスポール・デラックス
ギブソン・J-200

ピート・タウンゼント(Pete Townshend、本名:Peter Dennis Blandford Townshend、1945年5月19日 - )は、イングランドロックミュージシャン小説家ロックバンドザ・フーギタリストである。

2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第10位[1]
来歴
生い立ち

ロンドンチジックで生まれる。父親のクリフ・タウンゼントはイギリスでは有名なサックス・プレイヤーで、母親のベティもまたプロのシンガー、そして祖父のホレス・タウンゼントもセミプロのミュージシャンであり、まさに音楽一家だった[2]。6歳から7歳までの間、ツアーで家を空けていた両親に代わり、祖母のデニーに面倒を見られていたが、デニーは精神を病んでおり、幼いタウンゼントに虐待を加えた。この時期をタウンゼントは「人生最悪の暗黒時代」と表現している[3]。音楽的環境に恵まれた家庭に育ちながら少年時代は音楽に関心を示す事はなかったというが、1956年の夏に友人と共に観に行った映画『ロック・アンド・ロール/狂熱のジャズ』に影響を受け、ギターを弾きたいと欲するようになる。12歳のクリスマスギターをプレゼントされるが、買い与えたのは皮肉にも祖母のデニーだった。だが弾きこなすには難しいと考え、その後4弦のバンジョーを入手し、腕を磨いた。それ以前に父同様にサックスをやろうとしたが、そちらは上達しなかったという[4]

1958年春、アクトン・カウンティ・グラマー・スクールでジョン・エントウィッスルと知り合い、学校の仲間でコンフェデレイツというジャズ・バンドを結成する[5]。このバンドはすぐに消滅したが、その後もスコーピオンズというバンドで共にプレイするなど、二人の交流は続いていた[6]1957年には弟のポールが[7]1960年には下の弟のサイモンが誕生[8]。サイモンは後に兄同様ミュージシャンとなり、タウンゼントやザ・フーのツアーにサポート・ミュージシャンとして参加している。

1961年、イーリング・アート・カレッジに入学。同年、エントウィッスルがグラマー・スクールの先輩であるロジャー・ダルトリーに誘われ、スコーピオンズを抜け、ダルトリーのバンド、ザ・ディトゥアーズに加入。翌1962年にはタウンゼントもエントウィッスルに誘われる形で加入する[9]。実はエントウィッスルよりも先にダルトリーはタウンゼントに目を付けており、ディトゥアーズへの加入を持ちかけていた[10]。その後、ダルトリーの自宅で行われた簡単なオーディションを受け、加入が決まった[11]。加入直後はリズムギターの担当だったが、リードギター担当だったダルトリーが日中の板金工の仕事でしばしば手を負傷していたため、ギターを辞めてボーカルに専念することにし、タウンゼントがリードギタリストとなった[12]。当時タウンゼントは真剣にプロ・ミュージシャンになることは考えておらず、彫刻家になろうと考えていたというが[13]、バンド活動が忙しくなり、学業との両立が難しくなったため、1964年の夏休み前に中途退学し[14]、その頃に音楽で生きていく決意を固めたという[15]

メジャー・デビューまでの間に何度もメンバー・チェンジが行われたものの、1964年に前任のドラマーに代わりキース・ムーンが加入したことで固まった。バンド名をザ・フーに改め、同年7月、ザ・フーはメジャー・デビューを果たす。
1964年 - 1983年

初代マネージャーのピート・ミーデン(英語版)は、ザ・フーを当時席巻していたモッズ・バンドとして売り出そうと計画し、メンバーにモッズの衣装を着させ、バンド名もハイ・ナンバーズと改めさせた。そして彼等はミーデン作のデビュー・シングル「ズート・スーツ」を発表したが、ミーデンの目論見は外れて不発に終わった。彼等は、新しいマネージャーであるキット・ランバートとクリス・スタンプ(英語版)の下で名前をザ・フーに戻して再出発する。ランバートはタウンゼントにダビング録音が可能なテープレコーダーを買い与えた。これがタウンゼントの作曲家の才能を開花させるきっかけとなった[16]。タウンゼントは「アイ・キャント・エクスプレイン」、「エニウェイ・エニハウ・エニホェア」、「マイ・ジェネレーション」、「恋のピンチ・ヒッター」とヒットナンバーを次々と量産、ザ・フーは一躍スターダムにのし上がった。

タウンゼントは他のアーティストとも積極的に活動した。1966年、ザ・マージーズ(The Merseys)という音楽ユニットに「ソー・サッド・アバウト・アス」を提供[17][18]、1967年にはプティング(The Pudding)というバンドに「マジック・バス」を提供した[19][20][注釈 1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:133 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef