ピート・ウォーカー_(映画監督)
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この項目では、イギリスの映画監督について説明しています。アメリカの野球選手については「ピート・ウォーカー (野球選手)」をご覧ください。

ピート・ウォーカー
Pete Walker
本名ピーター・ウォーカー
生年月日1939年
出生地 イギリスサセックス州ブライトン
国籍 イギリス
職業映画監督
活動期間1967年 - 1983年
主な作品
『フライトメア』Frightmare
『魔界神父』House of Mortal Sin
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ピート・ウォーカー(Pete Walker 1939年 - )はイギリスサセックス州ブライトン出身の映画監督脚本家映画プロデューサー。主に1970年代のイギリスで、スプラッター映画を多く監督したことで知られる[1]

残酷描写への規制が大きいイギリス映画界において、イタリアのジャッロから影響を受けたサディスティックなスプラッター描写を盛り込んだサイコ・ホラーを多く発表した。残酷描写のみならず、絶望的で厭世観の強い、見る者を陰鬱な気分に叩き落す粘着質な作風と、後味の悪さが残る救いのないラストが特徴的である。

ブリティッシュ・ホラー映画の第一人者として高い評価を得ているが、ハマー・プロやアミカス・プロのような怪奇映画専門の制作会社からの委託を受けず、一貫して独立プロによって映画製作を続けた。出生名のピーター・ウォーカー名義でクレジットされることもある。


目次

1 経歴

1.1 B級アクションとソフト・ポルノでの出発

1.2 ジャッロとの出会いでスリラー映画に挑戦

1.3 脚本家マクギリヴレイ、女優シーラ・キースとの出会い

1.4 『フライトメア』『魔界神父』でモダン・ホラーの巨匠へ

1.5 スプラッター色の強調とアルジェント・タッチの模倣へ

1.6 映画製作からの撤退


2 監督作品

3 出典

4 外部リンク


経歴
B級アクションとソフト・ポルノでの出発

1939年イギリス・サセックス州ブライトンに生まれる。父親のシド・ウォーカーは寄席のコメディアンで、母親はコーラス・ガールだった。1960年代初頭から地元のブライトン・フィルム・スタジオで働くようになり、TVコマーシャルの撮影や映画の端役などの仕事をこなす。この時期には『栄光への脱出』(1960年)やマイケル・ウィナー監督の "Out of the Shadow"(1961年)などの映画に端役で出演している[2]。映画の撮影に関わるうちにやがて映画監督を志すようになるが、映画界での実績がないことからなかなかチャンスがつかめず、自ら資金を集めて1967年に独立プロダクションを設立する[3]

短編ソフト・ポルノ映画映画 "For Men Only"(1968年)で監督デビューした後、エロティックな描写を含む低予算B級アクション映画『ザ・アンタッチャブル/暗黒街のハスラー』(1968年)で長編デビュー。続いて長編ソフト・ポルノ『結婚詐欺防止法教えます/中年ハイスクールPart1』(1969年)と、B級アクション『バイオレンスマン』(1970年)を発表する。この時期のピート・ウォーカーは脚本を24時間で書き上げ、一週間で撮影を行うというハード・スケジュールであった。

『バイオレンスマン』はB級アクションとしてそこそこの好評を得たが、ウォーカー自身は本作の出来の悪さを自覚していた。1970年に知人の映画プロデューサー、マイケル・クリンガーに『バイオレンスマン』の試写を見せた際に出来の悪さを面と向かって酷評されたが、反論せずにそれを受け入れたという。クリンガーは本作を酷評しながらも、その時に企画していたギャング映画を作るための参考資料としてウォーカーの長編処女作であるアクション映画『ザ・アンタッチャブル/暗黒街のハスラー』のフィルムを借りて行った。ちなみにその翌年に公開されたクリンガー製作のギャング映画は、名作として知られる『狙撃者』(1971年)であった。
ジャッロとの出会いでスリラー映画に挑戦

成人男性向けの通俗娯楽映画を濫作していたピート・ウォーカーだったが、1970年にダリオ・アルジェント監督のイタリア製サスペンス映画歓びの毒牙』(1969年)を見たことからスリラー映画に意欲を示す。ウォーカーは当時の人気女優スーザン・ジョージを主演に迎えて初のサスペンス映画 "Die Screaming, Marianne"(1970年)を監督する。しかし凡庸なメロドラマ調のストーリーと演出によって平凡な完成度にとどまり、本作は特に話題になることもなく終わった。

初のスリラー"Die Screaming, Marianne"が失敗に終わったことでスリラーから遠ざかり、ふたたびソフト・ポルノの製作に戻る。一旦はスリラーから撤退したウォーカーだったが、イタリアのマリオ・バーヴァ監督によるスプラッター映画の名作『血みどろの入江』Reazione a catena (Ecologia del delitto)(1970年)を見たことで再び恐怖映画への意欲が再熱する。

『血みどろの入江』の湖畔の屋敷を舞台に起こる連続殺人という要素からヒントを得て、スリラー第二作の"The Flesh and Blood Show"(1972年)を監督する。廃墟と化した湖畔の劇場に閉じ込められた劇団員たちが一人また一人と殺されていく展開は、『アクエリアス』(1986年)などの1980年代に流行したスプラッター映画を思わせるが、恐怖映画としては緊張感に欠ける凡作にとどまってしまい、興行的にも振るわなかった。

力を入れて製作した"The Flesh and Blood Show" の興行成績が振るわず、ピート・ウォーカーはふたたびソフト・ポルノへと逆戻りする[3]。この時期に監督した『グレタの性生活』Four Dimensions of Greta(1972年)は日本で唯一の劇場公開となったピート・ウォーカー作品であり、3D効果を取り入れたポルノ映画としてちょっとした話題になった。
脚本家マクギリヴレイ、女優シーラ・キースとの出会い

1974年にピート・ウォーカーは脚本家のデヴィッド・マクギリヴレイと出会う。ピート・ウォーカーはみずから書き下ろした恐怖映画の原案の脚本化を、意気投合したマクギリヴレイに依頼する。マクギリヴレイの脚色を得たウォーカーは恐怖映画への再起を賭けて『拷問の魔人館』House of Whipcord(1974年)を監督し、この映画がウォーカーにとって初の本格的なヒット作となる。

『拷問の魔人館』は、当時話題となっていたトビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』(1974年)からの影響を受けたサイコ・ホラーの傑作である。美貌のフランス人モデル、アンヌ=マリー(ペニー・アーヴィング)は、パーティーの席でマーク・E・ド・サド(ロバート・テイマン)と名乗る青年から誘いを受けて彼の自宅へと連れて行かれる。しかしアンヌ=マリーが連れて行かれた館では、狂った判事であるマークの父親と母親が支配する私設刑務所であった。マークの父親ベイリー判事(パトリック・バー)は保守的な裁判官だが、引退後に発狂して家族とともに若い女性を誘拐して私設裁判にかけて監禁していた。ベイリー判事の妻・マーガレット夫人(バーバラ・マーカム)と息子のマークも狂った父親の悪影響を受けていた。ベイリー判事の私設法廷で、アンヌ=マリーは人前で肌をさらす「モデル」という職業の退廃性を裁かれ「有罪判決」を受け、館の牢獄に監禁されてしまう。マーガレット夫人が支配する私設刑務所にはアンヌ=マリーの他にも、誘拐されてベイリー判事の私設法廷でさまざまな言いがかりによる罪状によって裁かれ、有罪判決を受けた女たちが監禁されていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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