この項目では、1520年代出生の画家について説明しています。1560年代出生の画家については「ピーテル・ブリューゲル (子)」をご覧ください。
ピーテル・ブリューゲル
Pieter Bruegel(Brueghel)
死後に発表された肖像画(1582年)
誕生日1525年 - 1530年頃
出生地ブラバント公国、ブレー
死没年1569年9月9日
死没地ブラバント公国、ブリュッセル[1]
芸術分野絵画
代表作『農民の踊り』
『子供の遊戯』
『雪中の狩人』
影響を受けた
芸術家ヒエロニムス・ボス
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ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel(Brueghel) de Oude [?pit?r ?bro???l]
, 1525年から1530年頃 - 1569年9月9日)は、16世紀のブラバント公国(現在のオランダとベルギー)の画家。「ペーター」あるいは「ペーテル」と表記されることもある。同名の長男と区別するため「ブリューゲル(父、または老)」と表記されることが多い。 ブリューゲルの生涯に関する資料は極めて少なく、ほとんど1604年のカレル・ヴァン・マンデルによる伝記しかない。しかし、この伝記は逸話的な要素が多く、必ずしも正確とはいえない。また、ブリューゲル自身は何も文章を残していない[2]。 ブリューゲルの生年・生地ははっきり分かっていない。マンデルの伝記によれば、ブレダ近くのブリューゲル (Breughel) という村で生まれたという。しかしながら、フランドル地方にはブリューゲルという名前の村が3つあるが、いずれもブレダからは離れている。ブリューゲルと同時代にアントウェルペンに住んだイタリア人Guicciardiniは、ブリューゲルをブレダ出身としている。マンデルは、ブリューゲルが農民を数多く描いたことから彼自身も農民出身だと考えたようだが、むしろ、人文主義者とも交流を持つ、教育を受けた都市生活者であったと考えられ、後者の方が正確である可能性が高い。ただ、彼の先祖はブリューゲルという名前の村出身であった可能性がある[3]。 1551年、アントウェルペンの画家組合(ギルド)である聖ルカ組合に「Peeter Brueghels」という名前で加入が登録されているのが最初の記録である。組合に新規加入するのは通常21歳から26歳の間であったことから、逆算して、1525年ないし1530年頃に生まれたものと推定されている[4]。 マンデルによれば、ブリューゲルはアントウェルペンでピーテル・クック・ファン・アールストから絵を習ったという。クックは当時最も尊敬を集めた画家の一人であり、神聖ローマ皇帝カール5世に仕えた宮廷画家であるとともに、彫刻、建築、タペストリーやステンドグラスのデザインも手がけていた。また、ブリューゲルに影響を与えたことが確実なもう一人の人物はブラウンシュヴァイク・モノグラミスト
生涯
前半生(-1551年)
マンデルによれば、ブリューゲルはピーテル・クックのアトリエを去ってから、アントウェルペンの版画業者ヒエロニムス・コックの下で働くようになった。また、遅くとも1550年9月から、1551年10月までは、アントウェルペンを離れ、メヘレンのClaude Doriziのアトリエでピーテル・バルテンスとともに手袋製造業者のギルドのために祭壇画を制作している[5]。 1551年にアントウェルペンの画家組合に加入してからほどなく、ブリューゲルはイタリアに発った。リヨンを経てモン・スニ峠を越える路程で、画家マールテン・デ・フォスも一緒だったと思われる。ブリューゲルはローマ滞在には飽きたらず、1552年、南イタリアのカラブリア州まで赴いたことが、同年トルコの攻撃で焼けたレッジョ・ディ・カラブリアの街を描いた素描から推測される。レッジョから、さらにメッシーナまで行ったことも、彼の版画から推測される。ブリューゲルの「死の勝利」はシチリア島・パレルモのスクラファーニ宮殿
イタリア旅行(1551年頃-1554年頃)
1553年までに、ローマに戻ったと思われる。ヨリス・フーフナーヘルによる2枚のエッチングに、「ピーテル・ブリューゲル画、ローマ、1553年 (Petrus Bruegel Fecit Romae Ao 1553)」という銘が入っている。また、ローマの「リパ・グランデの港」の素描も残っている。さらに、ローマの啓蒙家ジュリオ・クローヴィオの収蔵品目録に「半分を自分が、半分をピーテル・ブリューゲルが描いた細密画」、その他ブリューゲルの「バベルの塔」、ガッシュ水彩画「リヨンの眺め」等数点の作品が記載されていることも、ローマ滞在の証拠である[6]。
ブリューゲルは、遅くとも1554年には北方に戻っている。その時の道のりについては、モン・スニ峠、スイス、リヨンを通ったのか、これより東のミュンヘンを通るルートだったのか、争いがある。マンデルは、「ブリューゲルはアルプスで全ての山々と岩々を飲み込み、帰ってから、それをキャンバスとパネルの上に吐き出した」と書いている[6]。 ブリューゲルは、1555年までにはアントウェルペンに戻っている。1555年、ヒエロニムス・コックが「大風景画」と呼ばれる12枚の版画を出版していることから分かる。ブリューゲルの油絵で日付の付されたものは、1557年が最初である[6]。 当時のアントウェルペンは、アジアへのアフリカ航路、アメリカへの大西洋航路の開拓などにより、地中海沿岸都市に代わり大航海の一大拠点となるとともに、絹・香辛料をもたらす中東、穀物を産するバルト海、羊毛を産するイギリスを結ぶ南北貿易でも栄え、ヨーロッパの中で成長著しい都市であった。芸術も盛んであり、1560年には360人の画家がいたと言われる(1569年時点でアントウェルペンの人口は約89,000人)[4]。 ブリューゲルは、アブラハム・オルテリウスや出版業者クリストフ・プランタンなど、オランダの著名な人文学者たちと親交を持っていた。1559年から、彼はブラックレター体の「brueghel」からローマ大文字の「BRVEGEL」に変えているが、Hを落としたのは、人文学者の慣習に従いラテン語的な書き方を採用したものと考えられる[6]。 1562年の作品「二匹の猿」には、後景にアントウェルペンの港町が描き込まれている[7]。 1563年、ブリューゲルは、マリア・クック(1545年生? - 1578年没)と結婚した。マリアは、ピーテル・クックと、啓蒙家で水彩画家のマイケン・フェルフルスト
アントウェルペン(1554年頃-1562年)
「大きな魚が小さな魚を食う」1557年。版画。
「二匹の猿」1562年。
ブリュッセル(1563年-1569年)
1567年8月、スペイン王フェリペ2世から派遣された第3代アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドがブリュッセルに入市し、プロテスタント(新教徒)に対する激しい弾圧を行った。ブリューゲルはこの事態を間近で見ることとなった。
マンデルによれば、ブリューゲルは、死の直前、妻に、「余りに直截的・風刺的な」素描を焼き捨てさせたという。マンデルは、「後悔の念からか、妻が迫害されたり何らかの形で責任を問われたりすることを恐れたためか」と記している。この記述をめぐって、ブリューゲルの政治的・宗教的立場が、例えば再洗礼派のように、微妙なものであったのではないかという推測が行われてきた。ブリューゲルは、メヘレン大司教アントワーヌ・ド・グランヴェルから尊崇を受けており、フェリペ2世に仕えたアブラハム・オルテリウスとも親友であった一方、哲学的には新ストア主義(英語版)に近く、デジデリウス・エラスムスやトマス・モア、ディルク・コールンヘルトの著作にも親しんでいたと思われる。ただ、特定の党派に属するものではなかった可能性が高い[8]。
1569年、30代末-40代前半で没した。ノートルダム・ド・ラ・シャペル教会(英語版)(Eglise Notre-Dame-de-la-Chapelle) に埋葬されている[9]。
作品
概観「ピーテル・ブリューゲルの作品一覧」も参照
ブリューゲルの油絵は40点ほどが知られている。そのうち12点がウィーンの美術史美術館に収蔵されているが、これはネーデルラント総督エルンスト・フォン・エスターライヒ(1594年)及びその兄である神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が収集したものであり、ハプスブルク家コレクションに属していた。上記の約40点以外に、現存しない作品や、複写でしか残っていない作品がある[10]。
また、素描及び版画も多く残っている。1907年には、104点の素描がブリューゲルのものとされていたが、その後の研究で他の画家によるものであることが判明したものが多く、現在でも真偽に争いがあるものも多い。しかし、例えば1556年-1558年にコックが出版したエッチングの下絵はブリューゲルのものであり、「第2のボス」との名声を確立することになった[11]。 最も早期の作品は、1553年頃の「使徒に出現するキリストのある風景」であり、その中の人物はマールテン・デ・フォスが描いたものである可能性もある。また、「イカロスの墜落」の最初のバージョンも若い時に描かれたと思われる[10]。ベルギー王立美術館所蔵の「イカロスの墜落のある風景」は、長い間ブリューゲル作とされてきたが、現在では無名の画家がブリューゲルのオリジナルを模写したものであると考えられている[12][13]。 「ネーデルラントの諺」(1559年)は、初めてブリューゲルらしさが発揮された作品である。これと「子供の遊戯」(1560年)、「謝肉祭と四旬節の喧嘩」(1559年)は、併せて初期の3大作品といえる[14]。
初期(1553年-1560年)
「ネーデルラントの諺」1559年、ベルリン美術館。
「謝肉祭と四旬節の喧嘩」1559年、美術史美術館。