ピーテル・パウル・ルーベンス
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ピーテル・パウル・ルーベンス
Peter Paul Rubens
1623年の『自画像』。キャンベラオーストラリア国立美術館所蔵
本名Peter Paul Rubens
誕生日1577年6月28日
出生地ヴェストファーレンジーゲン(現在のドイツ
死没年1640年5月30日(1640-05-30)(62歳没)
死没地スペイン領ネーデルラントアントウェルペン(現在のベルギー
国籍ベルギー
配偶者イザベラ・ブラント
エレーヌ・フールマン
運動・動向バロック
芸術分野絵画, 外交
影響を受けた
芸術家ミケランジェロティツィアーノカラヴァッジョピーテル・ブリューゲル
影響を与えた
芸術家ヴァトードラクロワ
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ピーテル・パウル・ルーベンス[注 1]: Peter Paul Rubens, Pieter Pauwel Rubens, Petrus Paulus Rubens オランダ語: [?ryb?(n)s]、1577年6月28日 - 1640年5月30日)は、バロック期フランドル画家外交官祭壇画肖像画風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品を残した。日本語ではペーテル・パウル・リュベンス[1]、ピーテル・パウル・リュベンス[2]などと表記する場合もある。

ルーベンスはアントウェルペンで大規模な工房を経営し、生み出された作品はヨーロッパ中の貴族階級や収集家間でも高く評価されていた。またルーベンスは画家としてだけではなく、古典的知識を持つ人文主義学者、美術品収集家でもあり、さらに七ヶ国語を話し、外交官としても活躍してスペイン王フェリペ4世とイングランド王チャールズ1世からナイト爵位を受けている。
生涯
幼少期から青年期ルーベンスとイザベラ・ブラントの肖像』(1609年 - 1610年)
アルテ・ピナコテークミュンヘン[3][4] 『すいかずらの木陰』『すいかずらの葉陰』などとも呼ばれるこの作品には、ルーベンスと最初の妻イザベラが描かれている。

ルーベンスは、ヤン・ルーベンスと妻マリアとの間に、ドイツのジーゲンで生まれた[5]。父ヤンはプロテスタントカルヴァン主義者の法律家で、1568年にマリアとともにスペイン領ネーデルラント総督アルバ公フェルナンドのプロテスタント迫害のために、アントウェルペンからケルンへと逃れてきた夫婦だった[6]。ヤンはオランダ総督オラニエ公ウィレム1世の二度目の妃アンナの法律顧問さらには愛人となり[5]、1570年にジーゲンのアンナの宮廷へと居を移している。アンナの愛人であることが発覚して投獄されていたヤンだったが後に釈放され、1577年にマリアとの間にルーベンスが生まれた。その後1578年にヤン一家はケルンへと戻ったが、1587年にヤンは死去している[5]。父親の死後、一家は故郷のアントウェルペンへ戻った[5]。アントウェルペンでカトリック教徒として成長したルーベンスの作品からはその宗教的影響を確認することが出来る[7]。後年のルーベンスはカトリックの改革運動である対抗宗教改革の影響を受けた絵画様式の主導者となっている[7]

ルーベンスはアントウェルペンで人文主義教育を受け、ラテン語と古典文学を学んだ。1590年、生活に困窮していたマリアは、13歳のルーベンスをフィリップ・フォン・ラレング伯未亡人のマルグレーテ・ド・リーニュの下へ小姓に出した[5]。ここで芸術的素養を見込まれたルーベンスはアントウェルペンの画家組合、聖ルカ・ギルドへの入会を認められ、見習いとしてアントウェルペン生まれの芸術家トビアス・フェルハーフト(英語版)に弟子入りし、その後引き続いて当時のアントウェルペンの主要な画家だったアダム・ファン・ノールトオットー・ファン・フェーンに師事した[5][8]。ルーベンスの芸術家としての最初期の修行は、先人たちの作品の模倣、模写だった。手本となったのは、ルネサンス期のドイツ人芸術家ハンス・ホルバイン木版画、ルネサンス期のイタリア人画家ラファエロの作品を原画としたイタリア人版画家マルカントニオ・ライモンディの銅版画などである。ルーベンスは1598年に修業を終え、一人前の芸術家として芸術家ギルドの聖ルカ組合の一員となった[9]
イタリア時代(1600年 - 1608年)『レルマ公騎馬像』(1603年)
プラド美術館マドリード
スペイン貴族レルマ公フランシスコ・デ・サンドバル・イ・ロハス(英語版)の肖像画で、ルーベンスが最初にスペインを訪れたときの作品。

1600年、古代と近代の巨匠の作品を現地で学ぶことを目的として、ルーベンスは推薦状を携えてイタリアへと向かった[10]。最初に訪れたのはヴェネツィアで、ティツィアーノヴェロネーゼティントレットらの絵画を目にしている[10]。その後マントヴァへ向かい、マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガの宮廷に迎えられた[10]。ヴェロネーゼとティントレットの色彩感覚と作品構成は、当時のルーベンスの作品に即座に影響を与え、後年になって円熟期を迎えたルーベンスの作品にはティツィアーノからの大きな影響が見られる[11]

マントヴァ公からの金銭的援助を受けたルーベンスは、モンタルト枢機卿への推薦状を手に1601年にフィレンツェを経由してローマを訪れた[10]。ローマでは古代ギリシア古代ローマの芸術作品に触れ、イタリア人芸術家たちの作品の模写に務めている。とくにヘレニズム様式の彫刻『ラオコーン像』や、イタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロの作品がルーベンスに大きな影響を与えた[12]。また、当時のローマ画壇で最先端だった画家カラヴァッジョの作品が持つ高度な自然主義表現にも影響を受けた。後にカラヴァッジョの『キリストの埋葬』の複製画を制作したほか、マントヴァ公からの依頼を受けて、現在はパリルーヴル美術館が所蔵するカラヴァッジョの『聖母の死』の買い付けも手配した[13]。また、アントウェルペンのドミニコ会修道院による、現在はウィーン美術史美術館が所蔵するカラヴァッジョの『ロザリオの聖母』の購入にも協力している。ルーベンスはこのローマ滞在時にサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂からの依頼で、最初の祭壇画『聖へレナと聖十字架』を完成させている[14]ヴァリチェッラの聖母』(1608年)
キエーザ・ヌオーヴァ(ローマ
キエーザ・ヌオーヴァ(サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂)の主祭壇画。

ルーベンスは1603年に、マントヴァ公からスペイン王フェリペ3世への贈答品を携えた外交官としてスペインを訪れた。ルーベンスはこのスペイン滞在中に、先代のスペイン王フェリペ2世が収集したラファエロとティツィアーノの膨大な作品群を目にしている[15]。このスペイン滞在中にフェリペ3世の重臣レルマ公フランシスコ・デ・サンドバル・イ・ロハス(英語版)を描いた『レルマ公騎馬像』には、ティツィアーノの傑作『カール5世騎馬像』などの作品からの影響が見られる。このスペイン訪問が、その後ルーベンスが果たしていく外交官としての最初の役目となった。

ルーベンスは1604年にイタリアへと帰還し、その後の4年間でマントヴァ、ジェノヴァ、ローマを転々とした。ルーベンスはこの時期に『侯爵夫人ブリジダ・スピノーラ・ドーリアの肖像』などの肖像画を多数制作しており、マリア・ディ・アントーニオ・セッラ・パッラヴィチーニを描いた肖像画は、後世の画家アンソニー・ヴァン・ダイクジョシュア・レイノルズトマス・ゲインズバラらの作品にも影響を与えた[16]


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