伯爵
ピーター・レイシ
ピーター・レイシ
生誕1678年10月9日
アイルランド王国、リムリック県、キレディ
ピーター・レイシ(英語: Peter Lacy、1678年10月9日 - 1751年5月11日(グレゴリオ暦)[1])、またはペーター・フォン・ラシー伯爵(独: Peter Graf von Lacy)、ピョートル・ペトロヴィチ・ラッシ(ロシア語: Пётр Петро?вич Ла?сси, tr. Pyotr Petrovich Lassi[2])、出生名ピアース・エドモンド・デ・レイシ(英: Pierce Edmond de Lacy)は、アイルランド王国出身の軍人。ピョートル・ルミャンツェフ(英語版)とアレクサンドル・スヴォーロフ以前のロシア帝国陸軍における傑出した指揮官の1人。後にリヴォニア(英語版)総督を務め、リガで没した。 ピーター・レイシ・オブ・キレディ(Peter Lacy of Killedy)とマリア・コートニー(Maria Courteney)の次男として、1678年10月9日(グレゴリオ暦)にキレディ
生涯
出生と家系
レイシの子孫が保存したレイシの自伝では父方の祖父をジョン・レイシ・オブ・ボーリンガリー(John Lacy of Ballingarry)で[4]、ピアース・オジュ・デ・レイシ・オブ・ブルーフ(Pierce Oge de Lacy of Bruff、1607年に処刑された)も親族であると主張している。レイシの祖父ジョン・レイシ・オブ・ボーリンガリーはピアース・オジュ・デ・レイシ・オブ・ブルーフの弟でサー・ヘンポン・ピアース・デ・レイシ(Sir Hempon Pierce de Lacy)の息子だったとされ、ヘンポン・ピアース・デ・レイシは自身がウィリアム・ゴーム・デ・レイシ(William Gorm de Lacy)の直系の子孫であると主張している[5]。ウィリアム・ゴーム・デ・レイシはミーズ卿ヒュー・デ・レイシ(英語版)でノルマン貴族ウォルター・デ・レイシ(英語版)の玄孫だった。
また、ジョン・レイシ・オブ・ブルーフ中佐が叔父とされ、ピーター・レイシが13歳のときに参加したリムリック包囲戦(英語版)の守備軍の1人だった。そして、リムリック条約(英語版)でジャコバイト軍が降伏すると、叔父ジョンはピーター・レイシを買い戻して救出、ピーター・レイシとその家族(父と兄弟)とともにフランス王国に逃亡してアイルランド人旅団(英語版)に加入した。その後、ジョン・レイシ・オブ・ブルーフは1693年10月のマルサリーアの戦いで戦死した[4]。ただし、英国人名事典では叔父の名前をジェームズ・レイシとしている[1]。 リムリックで降伏した後、初代ルーカン伯爵パトリック・サースフィールド
フランスでの軍歴