アメリカ合衆国の政治家ジョン・ピーター・ガブリエル・ミューレンバーグJohn Peter Gabriel Muhlenberg
ジョン・ピーター・ガブリエル・ミューレンバーグ
生年月日1746年10月1日
出生地ペンシルベニア州トラップ
没年月日1807年10月1日
死没地ペンシルベニア州グレイズフェリー
所属政党民主党
配偶者アンナ・バーバラ・"ハンナ"・マイア
ペンシルベニア州選出のアメリカ合衆国下院議員
ジョン・ピーター・ガブリエル・ミューレンバーグ(英:John Peter Gabriel Muhlenberg、1746年10月1日-1807年10月1日)は、植民地時代、独立戦争時代および戦後のアメリカ合衆国ペンシルベニア州の牧師、軍人、および政治家である。 ミューレンバーグはペンシルベニア植民地のトラップで、ドイツ系アメリカ人のミューレンバーグ(ドイツ語表記はミューレンブルク〔Muhlenburg])夫妻のヘンリー(ハインリヒ)とアンナ(アンネ)の子供として生まれた。 アカデミー・オブ・フィラデルフィア(現在のペンシルベニア大学)で古典的教育を受け、その後1763年から1766年まで、ドイツ系の父の例に倣い、祖国のドイツのハレ・アン・デア・ザーレにある大学で学んだ。 フィラデルフィアに戻る前に短期間、ドイツの竜騎兵隊で従軍もした。1768年にルーテル教会の聖職者となり、ニュージャージー植民地ベドミンスターでその信徒団代表となった後で、バージニア植民地のウッドストックに移転した。 1770年、ミューレンバーグは同じドイツ系で、成功した陶器職人の娘であるアンナ・バーバラ・"ハンナ"・マイアと結婚した。夫妻には6人の子供が生まれた。1772年にイングランドを訪れ、聖公会の司祭に叙任された。バージニアのダンモア郡(現在のシェナンドー郡)では、その新しい会派の他に安全委員会や通信員会を指導した。1774年にバージニア植民地議会議員に選出され、第一次バージニア協議会の代議員になった。 1775年の暮れに向かう頃、ミューレンバーグは大陸軍第8バージニア連隊の大佐として部隊を立ち上げ指揮することを認められた。ジョージ・ワシントンが自らミューレンバーグにこの任務を受けることを求め、ミューレンバーグが同意した。しかし、やはり牧師だった弟のフレデリック・オーガスタス・ミューレンバーグは、イギリス軍が自分の目前で自分の教会を焼き払うまで、ミューレンバーグが軍隊に入ることを認めなかった。その事件の後にはフレデリック自身も軍隊に入った。 1800年代半ばにミューレンバーグの従兄弟甥が書いた伝記に拠ると[1]、1776年1月21日、ウッドストックの聖公会でミューレンバーグ牧師は、「全てのものには季節がある」で始まる旧約聖書の第3章コヘレトの言葉からその説教を取り上げた。第8節「戦争のとき、そして平和のとき」を読んだ後、「そして今は戦争の時だ」と宣言し、聖職者のローブを取って大佐の制服を顕わにした。翌日、ミューレンバーグはその郡から300名の兵士を率いて出発し、第8バージニア連隊の中核を形成させた。
初期の経歴
軍歴