ピーター・クーパー
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ピーター・クーパー
(Peter Cooper)

生誕 (1791-02-12) 1791年2月12日
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク
死没 (1883-04-04) 1883年4月4日(92歳没)
職業実業家、発明家、慈善家
宗教ユニテリアン主義
配偶者サラ・クーパー (Sarah Cooper)
子供エドワード・クーパー、サラ・アメリア・クーパー (Sarah Amelia Cooper)
親ジョン・クーパー (John Cooper)、マーガレット・キャンベル (Margaret Campbell)
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ピーター・クーパー(Peter Cooper、1791年2月12日 - 1883年4月4日)は、アメリカ合衆国実業家発明家慈善家で、アメリカ合衆国大統領候補者となったこともある人物である。彼はアメリカ合衆国において初めての蒸気機関車を設計、製造し、ニューヨークマンハッタン科学技術発展のためのクーパー・ユニオンを設立した。
若年期

ピーター・クーパーはニューヨークにおいて、オランダ人イングランド人ユグノーなどを先祖に持つ家系に生まれた[1]。ニューヨーク州ニューバーグ出身のメソジストの帽子職人であったジョン・クーパーの5人目の子であった[1][2]馬車用の車両職人の徒弟、家具職人、帽子職人、ビール醸造業者、雑貨店員などとして働き[1][3]、何でも屋をしているときに、布を切断する機械や、あるいはデウィット・クリントンが承認して建設されたエリー運河においてを牽引するために使おうと考えたエンドレスの鎖などを開発し、それを売ろうと試みたが、結局売ることはできなかった[1]

1821年にクーパーは、近くの屠畜場で生の材料を調達できるキップス湾のサンフィッシュポンドに面する場所に2,000ドルで糊の製造工場を購入し、それを長年にわたって成功裏に運営し[4]、糊、セメント、ゼラチンアイシングラスといったものの新しい製造法を開発して、2年以内に10,000ドルの利益を生み出した。そして町で1番の皮革なめし業者、塗料の製造業者、衣類の販売業者となった[5]。彼の工場からの排水が結果的に池をひどく汚染してしまったため、1839年に池を排水し埋め立てなければならなくなった[5]
事業家としての経歴トーマス・ナストが描いたピーター・クーパーの漫画

提案されていたボルチモア・アンド・オハイオ鉄道によりメリーランド州の地価が上がると説得され、クーパーは1828年に事業の利益を使ってそこに3000エーカー(約12平方キロメートル)の土地を購入した。そしてそこの開発を始め、湿地を排水し、丘をならしていくうちに、その土地に鉄鉱石を発見した。彼の鉄鉱石からレールを生産し、当然にボルチモア・アンド・オハイオ鉄道がそれを買うことを見越して、彼はボルチモアにキャントン製鉄所を設立し、鉄道が技術上の問題に直面した際には、1830年にマスケット銃の銃身や彼がニューヨークにいたころにいじりまわしていた小規模な蒸気機関など様々な古い部品を組み合わせてトム・サムという蒸気機関車を彼らのために組み立てた。この機関車は満足のいく成功を収め、投資家がボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の株を買うのを促し、これにより会社はクーパーの生産するレールを買えるようになって、クーパーは一財産を築いた[5]

クーパーは1836年からニューヨークで鉄の圧延工場を運転開始し、そこで無煙炭を使って攪拌精錬法を初めて成功させた[6]。クーパーは後に、工場が必要とする原材料の供給源により近い、デラウェア川沿いのニュージャージー州トレントンに工場を移転させた。彼の息子であるエドワード・クーパーと、義理の息子であるエイブラム・ヒューイットは後に、このトレントン工場を2,000人を雇う巨大複合工場へと拡大し、原材料から完成品までの一貫製鉄を行った[7]

クーパーは自分の発明について、ゼラチンの製造に関するものなど多くの特許を所有しており、またその生産に関する標準を開発した。ゼラチンの製造特許は後に咳止めシロップの製造業者に売却され、その業者が包装済みの形態を開発し、その妻が現在に残るジェローという名前を付けた[8]

クーパーは後に不動産と保険に投資し、ニューヨークでも屈指の裕福な人間となった[9][10]。これにもかかわらず、彼は富が富を生み出す状態となっていた年齢でも、比較的質素な生活をしていた。彼は質素で地味な服を着て、家の使用人も2人に限定していた。妻が高価で精緻な馬車を購入した際には、彼はこれを返品してより穏やかで安いものに取り換えた。クーパーは、ニューヨーク・アンド・ハーレム鉄道(英語版)が操車場を自宅のすぐ前に開設して家畜車を止めるようになっても、パーク街28丁目の自宅に留まっていた。ただし、1850年により上品なグラマシー・パークの近くに引っ越している[9]

1854年にクーパーは、グラマシー・パークにあるサイラス・フィールド(英語版)の家でニューヨーク・ニューファンドランド・アンド・ロンドン電信会社(英語版)を設立しようと集まった5人のうちの1人となり、1855年には、後に競合者を買収してアメリカ合衆国内に拡大する電信網に対する広範な支配権を[11]大西洋岸からメキシコ湾岸にかけて実現する[12]アメリカン・テレグラフの設立にも参加し、この会社は後に合併によりウエスタンユニオンの一部となった。彼は1858年に最初の大西洋横断電信ケーブルを敷設する監督を行った[13]
政治的な見解と経歴1879年の雑誌パック(英語版)に掲載された、クーパーが彼の息子でニューヨーク市長のエドワード・クーパーの尻を叩いている絵

1840年にクーパーは、ニューヨークの市会議員となった。

南北戦争以前、クーパーは奴隷制度廃止運動に熱心であり、キリスト教の考え方を適用することで社会問題を解決しようと推進していた。南北戦争においては北軍の強い支持者であり、また政府が紙幣を発行することに賛同していた。

リディア・マリア・チャイルドの著作に影響されて、クーパーはインディアン改革運動に関わるようになり、個人的に資金を出して合衆国インディアン委員会を設立した。ウィリアム・ドッジ(英語版)やヘンリー・ビーチャーなども参加したこの組織は、アメリカ合衆国におけるインディアンの保護と地位向上、そして西部における紛争を防ぐことを目的としていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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