ピーター・ウィレム・ボータ
Pieter Willem Botha
ピーター・ウィレム・ボータ(1962年撮影)
南アフリカ共和国
第6代 大統領
任期1984年9月3日 – 1989年8月15日
首相ピーター・ウィレム・ボータ(兼務)
南アフリカ共和国
第9代 首相
任期1978年10月9日 – 1984年9月14日
大統領バルタザール・フォルスター
マレー・フィリューン
ピーター・ウィレム・ボータ(兼務)
南アフリカ共和国
第8代 国防大臣
ピーター・ウィレム・ボータ(アフリカーンス語: Pieter Willem Botha [?pit?r ?v?l?m ?bu?ta]、1916年1月12日 ? 2006年10月31日)は、南アフリカ共和国の政治家。南アフリカ共和国首相(在任:1978年 - 1984年)、大統領(在任:1984年 - 1989年)を歴任した。アパルトヘイト(人種隔離政策)の完全撤廃を求める国際世論に対して抵抗し、その権威主義的な姿勢から独裁者とも批判された[1][2][3]。通称はPWまたは、アフリカーンス語で「大ワニ」を意味する「Die Groot Krokodil」。1943年に結婚したエリザ夫人との間に2人の息子、3人の娘がいる。 オレンジ自由州のボーア人(アフリカーナー)の両親の下に生まれる。実父はボーア戦争に軍人として参画した経歴を持つ。グレイ・ユニバーシティ・カレッジ(現・フリーステイト大学
生い立ち
第二次世界大戦中、ボータは、他の多くのアフリカーナーのナショナリストと同じようにナチス・ドイツに共感を寄せ、ブルームフォンテーンの極右団体である牛車の番人(英語版)に入党する。しかし、独ソ戦でドイツは劣勢となるや牛車の番人を非難して脱退した[4][5]。 1948年、国民党から国会議員に立候補し当選する(地盤はケープ州東部)。この選挙で国民党を中心とするダニエル・フランソワ・マラン四党連立政権は、アパルトヘイト政策を本格的に推進することとなる。1958年に発足したヘンドリック・フルウールト政権では副内相に就任。 1966年、バルタザール・フォルスター内閣で国防相に就任する。ボータは同年に始まる南アフリカ国境戦争を担当し、国際連合の経済制裁(武器禁輸)下においても対外戦争に耐えうるようにアームスコール
政治的経歴
1970年にエスタド・ノヴォ体制のポルトガルや同じ白人政権のローデシアとの非公式な軍事同盟であるアルコラ演習(英語版)をプレトリアで発足させ、アンゴラ独立戦争やモザンビーク独立戦争で連携するも1974年にポルトガルでカーネーション革命が起きてこの同盟関係は崩壊した[10][11]。
1975年には秘密裡の軍事協力であるイスラエル・南アフリカ協定(英語版)を締結して当時イスラエルの防衛大臣だったシモン・ペレスに3つの核弾頭らしき武器の提供をボータは要請した[12]。また、イスラエルから導入したエリコを基に弾道ミサイルのRSAシリーズ(英語版)も開発した[13]。
1975年からボータはアンゴラ解放人民運動(MPLA)を支援するソビエト連邦やキューバに対抗してアンゴラ内戦に直接介入する方針を決定し、サバンナ作戦(英語版)ではアンゴラに武力侵攻を行い、MPLAと対立したアンゴラ民族解放戦線(FNLA)[14]やアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)[15]に属したアンゴラの黒人も引き入れて第32大隊や南西アフリカ警察対不正規戦部隊を組織した[16]。