ピーターズバーグ_(バージニア州)
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ピーターズバーグ市

ピーターズバーグ市中心街
愛称 : 花形帽章の市
位置

バージニア州におけるピーターズバーグの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度12分46秒 西経77度24分01秒 / 北緯37.21278度 西経77.40028度 / 37.21278; -77.40028
歴史
1748年12月17日
行政
アメリカ合衆国
  バージニア州
 市ピーターズバーグ市
市長ブライアン・A・ムーア
人口
人口(2020年現在)
  市域33,458人
  備考[1]
その他
等時帯東部標準時 (UTC-5)
夏時間東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : ⇒[2]

ピーターズバーグ(: Petersburg)は、アメリカ合衆国バージニア州独立市である。人口は3万3458人(2020年)。州都リッチモンドの30キロメートル南に位置しており、リッチモンド都市圏の一部となっている。

ピーターズバーグには重要なアメリカ合衆国国家歴史登録財がある。1767年から1768年に掛けて建設されたパッラーディオ様式の邸宅「バターシー」である。市街地には、この町におけるアフリカ系アメリカ人の歴史に関わる、第一バプテスト教会やギルフィールド・バプテスト教会がある[2]。これらは全米最古級の黒人教会である。郊外には南北戦争の古蹟「ピーターズバーグ国立戦場跡」がある。
歴史
設立と初期の歴史

1607年イギリス人がバージニアに到着したとき、この地域はジョン・スミス船長の地図では「アパマタック」として示され、重要な種族であるポウハタン族が支配していた。この種族は戦いの首長である「コクォノサム」王とその姉妹である「オパソクィオナスク」女王によって治められていた。このアルゴンキン語族は後に現在のピーターズバーグ西縁でロホイック・クリークに町を形成した(正式にはロホウィックあるいはインディアンタウン・ラン)。

1646年、イギリス人は少し離れたアポマトックス川の南岸にヘンリー砦を建設した。エイブラハム・ウッド大佐がその後の時代にここから有名な遠征隊を数度派遣し、アパラチア山脈までの西方の各地を探検させた。

1675年頃のいずれかの時点で、その砦を指揮しインディアンと交易を行っていたピーター・ジョーンズが近くに「ピーターズポイント」と呼ばれる交易基地を開いた。1700年代初期からはこの地域にボーリング家も住んだ。1733年、ウィリアム・バード2世(同時にリッチモンドも設立した)がピーターズポイントで都市建設を計画し、「ピーターズバーグ」と改名することになった。バージニア植民地議会は1748年に正式にその市制を認めた。

アメリカ独立戦争の間の1781年に行われたブランフォードの戦いは、イギリス軍がバージニア支配を取り戻そうという試みの一部だった。これは成功しなかった。終戦後の1784年、近接するブランドフォードとポカホンタスの町が公式にピーターズバーグ市に合流した。

戦後の20年間で、独立のときの平等の夢に刺激された多くの奴隷所有者が、法的結婚以外で生まれた非嫡出子である者も含め奴隷を解放した。仕事ができることもあり、多くの自由有色人が成長を続けるピーターズバーグの社会に入ってきた。彼等は1774年に第一バプテスト教会、1797年にギルフィールド・バプテスト教会を設立し、これらは町で最古と二番目に古い黒人教会となり、国中でも最も古い部類に入る[2] [3] [4]

ピーターズバーグ港は綿花タバコおよび金属を加工し、その後にこの地域から輸送する為の商業の中心として有名になった。この町は州の産業の中心にもなった。

1813年には舗装道路が現れ始め、間もなくアポマトックス滝を迂回する運河が掘られた。次に町から四方八方に結ぶ鉄道線が造られた。19世紀半ばに輸送技術が発展し、ピーターズバーグは北はリッチモンドと、西はファームビルやリンチバーグと、南はノースカロライナ州ウェルドンと結ばれて鉄道中心として傑出した存在になった。最後の主要線は1858年に完成した東に向かうノーフォーク・アンド・ピーターズバーグ鉄道だった。

1851年、町にはガス灯が導入され、1857年までには新しい水道が造られた。これらすべての公共事業により、相当の大きさの産業がこの街に惹き付けられてきた。そのほとんどはタバコ製造業であったが、綿花や小麦粉の製粉および銀行なども成立した。
南北戦争

1860年のピーターズバーグ市人口は18,266人であり、その半数は黒人だった。さらにその3分の1は自由黒人であり、産業や貿易での職業機会を求めて市に集まってきた者だった。ピーターズバーグはアメリカ連合国の奴隷保有州の中でも最も高い自由アフリカ系アメリカ人男女の比率を示し、国中でも最も自由黒人の数が多かった[3]。多くの自由黒人がポカホンタス島に住んだ。ポカホンタス島歴史的地域は国定歴史史跡に含められている。

人口の半分を占める白人の90%はバージニアの生まれだった(バージニア土着の白人は、自由黒人と同じくらい当時の社会でしいたげられていた人々であった)。米英戦争のときの献身振りから彼らの帽子に付けられていた花飾りを称えて「花形帽章の市」という渾名が付けられることになった。

1861年南北戦争が始まったとき、ピーターズバーグの人々は再度戦いに応じた。この町から南軍へは歩兵数個中隊や砲兵隊さらには3個騎兵隊が提供された。1861年4月ピーターズバーグの300人以上の自由黒人がその指導者と共にノーフォークの要塞化工事を志願して出た。多くの奴隷もその所有者達によって志願することになった[5]

1864年、ピーターズバーグはユリシーズ・グラント将軍のオーバーランド方面作戦で重要な目標にされた。多くの鉄道があったことにより、アメリカ連合国の首都リッチモンドなど主要地点に対する生命線となった。ピターズバーグ戦場跡にある奴隷宿舎の残骸

コールドハーバーの戦い後、グラントはリッチモンドの東に留まり、南のピーターズバーグを目指した。グラントはピーターズバーグに入る鉄道を遮断することで、リッチモンドに入る物資を止めようとした。6月9日、北軍第18軍団のウィリアム・F・"ボールディ"・スミスが、元々1862年の半島方面作戦の時にジョージ・マクレラン将軍指揮するポトマック軍に対してピーターズバーグを守るために造られた一連の胸壁であるディモック線を攻撃した。南軍は約2,000名だった。この防御線は簡単に奪取できるものだったが、コールドハーバーでの記憶がまだ鮮明に残っており、スミスとウィンフィールド・スコット・ハンコック将軍は防御の施された前線に対する攻撃を逡巡した。南軍P・G・T・ボーリガード将軍がピーターズバーグでポトマック軍に対峙していることをロバート・E・リー将軍に報せた。リーが後に到着し、292日間におよぶピーターズバーグ包囲戦が始まった。

東側の前線では両軍の塹壕線が非常に近く位置していた。第48ペンシルベニア連隊のある兵士は文民のときに石炭坑夫であり、大きな声で「もし我々があの下に坑道を掘ればあの砲台を吹き飛ばして跡形も無くできる。」と話した。師団長のヘンリー・プレザンツ大佐がこのアイディアを真剣に取り上げ、上官に伝えた。この計画は実行に移されることになった。7月30日、坑道は爆破された。


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