ピントゥリッキオ
Pinturicchio
ヴァザーリ著『画家・彫刻家・建築家列伝』より
誕生日1454年
出生地ペルージャ
死没年1513年
死没地シエーナ
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シエナのピッコローミニ家図書室のフレスコ画『議会に出発するアエネアス・シルウィウス・ピッコローミニ』
ピントゥリッキオ(ピントゥリッキオ、Pinturicchio)またはピントリッキオ(Pintoricchio)ことベルナルディーノ・ディ・ベット(Bernardino di Betto, 1454年 - 1513年)は、ルネサンス期のイタリアの画家。 ピントゥリッキオはベネデットもしくはベット・ディ・ブラージョの子供としてペルージャに生まれた。おそらくベネデット・ボンフィリ
生涯
ルネサンスのペルージャ派の作品はどれもよく似ていて、ペルジーノ、ピントゥリッキオ、ロ・スパーニャ(Lo Spagna)、それに若い頃のラファエロの作品は、別の画家の作品と間違われることが多い。巨大なフレスコ画を制作する時には、師匠の描いたスケッチを実物大の下絵に拡大する時、壁に下絵を写す時、あるいは背景や装飾品を描く時、弟子や助手が重要な役割を果たしていた。
作品
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会『キリスト降誕』サンタ・マリア・デル・ポポロ教会デッラ・ローヴェレ礼拝堂
システィーナ礼拝堂でペルジーノのフレスコ画制作の助手を務めた[1]後、ピントゥリッキオはデッラ・ローヴェレ家の複数の人々他に雇われて、1484年から1492年の間に一度仕事をしたことがある、ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会(Santa Maria del Popolo)の礼拝堂の装飾を手掛けた。
最初に完成させたのは、ドメニコ・デッラ・ローヴェレ枢機卿が建てた西から1番目の礼拝堂の南面の祭壇画で、羊飼いたちの崇拝を描いた。先頭で跪いている羊飼いは、枢機卿本人の肖像画でもある。丸天井の下のルネット(リュネット、lunette)には、聖ヒエロニムスの生涯からいくつかの場面を描いた。
インノセンツォ・シーボ枢機卿(Innocenzo Cybo)が建てた2番目の礼拝堂に描いたフレスコ画は、1700年にアルデラーノ・シーボ枢機卿が建て直した際に壊されてしまった。
南側にある3番目の礼拝堂は、ローマ教皇シクストゥス4世の甥で、後に教皇ユリウス2世になるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの兄弟であるソラ公爵ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレのものである。ここには、4人の聖者たちと玉座の聖母を描いた美しい祭壇画と、西面には「聖母被昇天」の堂々たるフレスコ画を制作した。丸天井とルネットは上品なアラベスクの縁取りと聖母の生涯を描いた絵で装飾し、さらに台胴には、聖者たちの生涯を描いたモノクロームの絵と、預言者たちのメダイヨン、さらにルカ・シニョレッリの影響が辿れるかも知れない、優雅で力強く描写された等身大の女性像を描いた。
4番目の礼拝堂には、丸天井のルネットに四大ラテン教父を描いた。そのほとんどは湿気で相当に傷んでしまったが、復旧されて、現在の状態は悪くない。ピントゥリッキオがこの教会で最後に作ったのは、後方の聖歌隊席の丸天井のフレスコ画に贅沢なデザインの装飾品で、熟練した技術で、回りの景観と合うように配置されたラインを持っている。中央の八辺形のパネルには「聖母戴冠」の絵を描き、その回りには、4人の福音記者のメダイヨンを配し、その間のスペースは4人の巫女の横臥像で埋めた。ペンデンティブには、四大教父の絵が1人ずつ、天蓋付き壁龕の上に描かれ、それらの絵を分ける帯には金地の上に複雑なアラベスクを施した。全体を太く効果的な筆で描いたのは、かなり距離のある下から見た場合(当然そうなるのだが)美しく見えるように配慮したからである。4つの部分から成るシンプルな丸天井の装飾はこれ以上のものはないくらい美しい。
ピントゥリッキオはこの時ローマで、サンタ・マリア・イン・アラチェーリ教会(Santa Maria in Aracoeli)のフレスコ画も制作している。
1492年には、オルヴィエートに招かれて、オルヴィエート大聖堂(Orvieto Cathedral)に2人の予言者と2人の博士の絵を描いた。 翌1493年、ピントゥリッキオはローマに戻り、教皇アレクサンデル6世(ボルジア家出身)に雇われて、アレクサンデル6世が建てたばかりのバチカン宮殿の6つの部屋の装飾を手掛けることになった。『ボルジアの間』と呼ばれるこの部屋は、現在バチカン図書館の一部となっていて、そのうち5つの部屋にはピントゥリッキオが熟練の腕で装飾した連作のフレスコ画が今でも残っている。
ボルジアの間