ピルスバリー_(駆逐艦)
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艦歴
発注
起工1919年10月23日
進水1920年8月3日
就役1920年12月15日
退役
除籍
その後1942年3月2日に戦没
性能諸元
排水量1,190トン
全長314 ft 4 in (95.81 m)
全幅30 ft 8 in (9.35 m)
吃水9 ft 3 in (2.82 m)
機関2缶 蒸気タービン2基
2軸推進、13,500shp
最大速35 ノット (65 km/h)
乗員士官、兵員116名
兵装4インチ砲4門、3インチ砲1門、21インチ魚雷発射管12門

ピルスバリー[注釈 1] (USS Pillsbury, DD-227) は、アメリカ海軍駆逐艦クレムソン級駆逐艦の1隻。艦名は、南北戦争米西戦争で活躍し、流速計(英語版)の改良に尽力したジョン・E・ピルスバリー(英語版)にちなむ。その名を持つ艦艇としては初代。

ピルスバリーは、1942年3月2日バリ島南部での戦闘で失われた。第二次世界大戦において乗組員が全員戦死した二つのアメリカ海軍の主要水上艦艇のうちの一つである(もう一つは、1942年8月9日ガダルカナル島沖で撃沈されたジャーヴィス(USS Jarvis (DD-393))。
艦歴

ピルスバリーはフィラデルフィアウィリアム・クランプ・アンド・サンズで1919年10月23日に起工し、1920年8月3日にヘレン・ラングドン・リチャードソン夫人によって進水、艦長H・W・バーネス中佐の指揮下1920年12月15日に就役する。竣工後、ピルスバリーは1922年にアジア艦隊(英語版)に配備される[1]。以来、極東方面に長くあったが、1941年10月までの行動の詳細は不明[注釈 2]

1941年10月16日、ピルスバリーはマニラ湾内で僚艦ピアリー (USS Peary, DD-226) と衝突[2]。ピアリーとともにカヴィテの海軍工廠で修理が行われたが[1]、その修理期間中に1941年12月7日の真珠湾攻撃の報を受けることとなる。アジア艦隊旗艦の重巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CA-30) と軽巡洋艦ボイシ (USS Boise, CL-47) 、水上機母艦ラングレー (USS Langley, AV-3) をはじめとする主だった艦艇は12月7日の夜にマニラを抜け出してジャワ島に向かったが、ピルスバリーとピアリーは修理続行中のため脱出には加われなかった[3]。3日後の12月10日、カヴィテの海軍施設は高雄海軍航空隊第一航空隊の空襲を受ける。ピルスバリーは被弾しなかったがピアリーが被弾し、掃海艇ウィップアーウィル(英語版) (USS Whippoorwill, AM-35) とともに消火にあたった[1][2]。12月17日までには、ルソン島ミンダナオ島は常時日本軍の空と陸からの攻撃に晒されることなり、ピルスバリーとピアリーを対処のために南に向かわせることが検討されたが、残留海軍部隊の司令官フランシス・W・ロックウェル(英語版)少将はこの策を採らず、代わりに魚雷艇で対処することとなった[1]。ピルスバリーの魚雷はミンドロ島において陸揚げされ、魚雷艇に移された[1]

フィリピン戦線に対する日本軍の鉄輪は徐々に狭められ、アメリカ極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサー陸軍大将はクリスマス・イヴの12月24日に幕僚と家族を伴ってコレヒドール島に退却し、2日後の12月26日にマニラ無防備都市宣言を発した[4]。アジア艦隊司令長官トーマス・C・ハート大将は後追いで宣言を知り、いまだカヴィテにとどまって給油中のピルスバリーとピアリーが爆破され自沈させられるという噂を耳にする[1]。宣言発効当日の12月26日、ピルスバリーとピアリーはロックウェル少将の指示によりマニラを抜け出し、2日後の12月28日にバリクパパンに到着した[1]。その後は他のアジア艦隊の艦艇やイギリスオランダおよびオーストラリアの諸艦艇とともにスラバヤに落ち着き、ヒューストンや軽巡洋艦マーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) とともに対潜哨戒や夜間哨戒に従事[1]。また第58駆逐部隊に加わり、1942年2月4日には部隊の僚艦とともにバドゥン海峡を哨戒した[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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