ピョートル大帝
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ピョートル1世
Пётр I Алексеевич
全ロシアのツァーリ
ロシア皇帝

在位1682年5月7日ユリウス暦4月27日) -
1725年2月8日(ユリウス暦1月28日)
戴冠式1682年7月5日(ユリウス暦6月25日)
別号モスクワ大公

全名ピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ
出生1672年6月9日(ユリウス暦5月30日)
ロシア・ツァーリ国モスクワ
死去1725年2月8日(ユリウス暦1月28日)
ロシア帝国サンクトペテルブルク
配偶者エヴドキヤ・ロプーヒナ
 エカチェリーナ・アレクセーエヴナ
子女アレクセイ
アンナ
エリザヴェータ
王朝ロマノフ朝
父親アレクセイ・ミハイロヴィチ
母親ナタリヤ・ナルイシキナ
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ピョートル1世(ロシア語: Пётр I Алексеевич, ラテン文字転写: Pyotr I Alekseevich, 1672年6月9日ユリウス暦5月30日) - 1725年2月8日(ユリウス暦1月28日)[1])は、モスクワ・ロシアツァーリ(在位:1682年 - 1725年)、初代ロシア皇帝インペラートル / 在位:1721年 - 1725年)。大北方戦争での勝利により、ピョートル大帝(ピョートル・ヴェリーキイ / Пётр Вели?кий)と称される[2][注釈 1]ツァーリであったアレクセイ・ミハイロヴィチの六男で、母はナタリヤ・ナルイシキナ

ロシアをヨーロッパ列強の一員に押し上げると、スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保。また黒海海域をロシアの影響下に置くことを目標とした。これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革海軍創設を断行。さらに貴族に国家奉仕の義務を負わせ、正教会を国家の管理下に据え、帝国における全勢力を皇帝の下に一元化した。また歴代ツァーリが進めてきた西欧化改革を強力に推進し、外国人を多く起用して国家体制の効率化に努めた。

1721年11月2日には大北方戦争の勝利を記念し、元老院インペラートルの称号を贈らせ、国家名称をロシア帝国に昇格させた。ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく[3]、「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評される[4]

なお、ピョートルの存命時のロシアはグレゴリオ暦を採用しておらず、文中の日付はユリウス暦である[注釈 2]
生涯
出生から即位、実権掌握少年期のピョートル

ピョートルは1672年5月30日にツァーリのアレクセイ・ミハイロヴィチと2番目の后妃ナタリヤ・ナルイシキナの子として生まれた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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