ピュロス
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.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}「ピュロス」のその他の用法については「ピュロス (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ピュロス1世
Π?ρρο? Α'
エピロス王
ピュロス全身像
在位紀元前307年 - 紀元前302年
紀元前297年 - 紀元前272年
別号マケドニア王
出生紀元前319年
エピロス
死去紀元前272年
アルゴス
配偶者アンティゴネ (en)
ラナッサ (en)
ビルケナ (en)
子女オリュンピアス2世
プトレマイオス (en)
アレクサンドロス2世
ヘレノス
父親アイアキデス
母親プティア (en)
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ピュロス(ギリシア語: Π?ρρο?, ラテン語: Pyrrhus, 紀元前319年 - 紀元前272年)は、古代ギリシアのエピロス王(在位:紀元前307年 - 紀元前302年および紀元前297年 - 紀元前272年)、およびマケドニア王(在位:紀元前286年 - 紀元前284年および紀元前274年 - 紀元前272年)である。ピュッロスあるいはピュルロス、ピュロス1世とも表記される。戦術の天才として名高い。
誕生、そしてディアドコイ戦争ピュロスはエピロス王アイアキデスとファルサロスの将軍メノンの娘プティア (en
)との間に生まれ、デイダメイア (en:マケドニア王デメトリオス1世の3番目の妃) とトロアスという姉妹がいる。父アイアキデスがディアドコイ戦争で本国を離れた際にエピロスの国民に反乱を起され、当時2歳だったピュロスはイリュリア王国へ脱出する。その後、12歳の時にイリュリア王グラキアスの支援によりエピロス王位に付くが、17歳の時にグラキアスの子の結婚式に出席するために本国を離れた時、再び反乱が起こって国を追われる。
今度は姉デイダメイアの夫であるマケドニア王子デメトリオス1世を頼り、その後イプソスの戦いに参加。ピュロスは戦で勇名を馳せるもデメトリオスの軍は大敗してしまう。そして、ピュロスはデメトリオスとプトレマイオス1世が結んだ条約によりプトレマイオスの元で人質とされた。その時に彼はプトレマイオスの継娘アンティゴネ (en)と結婚し、プトレマイオスの支援を受けてエピロス王に返り咲く。そして、当時マケドニア王であったかつての盟友デメトリオスとの戦いを開始し、およそ10年の戦いを経てデメトリオスを追い払ってマケドニア王の座に着く。しかし2年後には同盟者であったはずのトラキア王リュシマコスにマケドニアを追われた。
対ローマ戦詳細は「ピュロス戦争」を参照
当時の新興都市国家ローマがイタリア半島南部の都市国家タラス(ラテン語ではタレントゥム)と戦うことになった時、常備戦力をほとんど持たない経済都市タラスは、当時既に武将として盛名をあげていたピュロスを莫大な報酬を約束して傭兵として雇い入れた。ピュロスは当時はまだほとんど無名であったローマ軍を見て「あの蛮族は陣形を見る限り野蛮ではないようだ」と評したという。
ピュロスはローマ軍と戦い(ヘラクレアの戦い(紀元前280年)、アスクルムの戦い(紀元前279年))これを連戦連勝で撃破したが、ギリシアから遠征してきたピュロスの軍勢は戦うごとに数を減らし、またローマが講和に応じないため、戦勝の慶びを述べた部下に対して、「もう一度戦ってローマ軍に勝ったとしても、我々は全く壊滅するだろう」と言った。このことから、割りに合わない勝利のことをピュロスの勝利と呼ぶようになった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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