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ピャスト家は、ポーランドの王家及び諸侯の名称。伝説上のピャストに由来する。
ピャストの後は、その息子シェモヴィト―レストコ―シェモミスウ―ミェシュコ1世に至る。ミェシュコ1世が実質的なポーランドの君主であり、それ以前の人物に関しては、『ポーランド年代記』以外の書物に記されていないことから非実在の人物と思われていた。しかし、第二次世界大戦後の発掘調査の結果、年代記の記述が裏付けられ、シェモヴィトまでの存在は確実視されるに至った。
しばしば誤解されているが、1370年のカジミェシュ3世の死でピャスト家の血は絶えたわけでない。カジミェシュ3世の死亡時点でピャスト家の分家は多数存在し、これ等の一族はヤギェウォ朝成立後も一種の独立した諸侯として君臨したのである。ピャスト家の完全なる断絶は、諸侯家では1675年のイェジ・ヴィルヘルムの死であり、男系男子の方は1702年のフェルディナンド2世・フォン・ホーエンシュタインの死である。
ピャスト家の分流はボレスワフ3世(口曲公)の息子達の代で行われるが、これは同時にポーランドの分裂時代の始まりを意味していたのである。
ピャスト家概要
シロンスク系「シロンスク・ピャスト家」も参照
シロンスクを治めた一門で、ボレスワフ3世の長男であるヴワディスワフ2世(亡命公)を祖とし、その息子の代でシロンスク公系とラチプシ及びオポレ公系に分離し、それぞれの家系は更に分離していく。元々、シロンスクは西スラヴ人が多数住んでいたが、モンゴルの襲来及びドイツ人の多数流入の結果、急速にドイツ化した。従って、シロンスク・ピャスト家は寧ろドイツ諸侯の性格を帯びる様になった。実際にシロンスクのピャスト諸侯は1410年のグリュンヴァルトの戦いでドイツ騎士団側に加わっているのである。 ヴワディスワフ2世の長男ボレスワフ1世(長身公)を祖とする。孫のヘンリク2世(敬虔公)は1241年のワールシュタットの戦いで討ち死にしたことは余りにも有名だが、その息子の代で一族は分流していく。 ボレスワフ2世の長男ヘンリク5世(出腹公)を祖とする。この公家はピャスト家の中で最も長く存続し、ヤギェウォ朝やヴァーサ朝が断絶した後も血筋を残した。しかし、最後の公であるイェジ・ヴィルヘルムが男子を残さず1675年に死去し、遂に断絶する。このことはピャストの血を引く諸侯家が地上から完全に消え去ったことを意味するのである。 ボレスワフ2世の次男ボルコ1世を祖とする。ヘンリク2世の代には娘アンナを神聖ローマ皇帝カール4世に嫁がせている。1428年に最後の男系男子ヤン ヘンリク2世の3男コンラト1世を祖とする。次のヘンリク3世の息子の代でそれぞれ公家を作っている。 ヘンリク3世の息子ヘンリク4世
シロンスク公家
レグニツァ及びシヴィドニツァ公家系の2つに分かれる。
レグニツァ公家「pl:Ksi???ta legnicko-brzescy」も参照
シフィドニツァ公家「pl:Piastowie ?widnicko-zi?biccy」も参照
グウォグフ、ジャガン及びオレシニツァ公家
グウォグフ及びジャガン公家「pl:Piastowie g?ogowsko-?aga?scy」も参照
オレシニツァ公家「pl:Piastowie ole?niccy」も参照
ヘンリク3世の息子でヘンリク4世の弟であるコンラト1世を祖とする。1492年のコンラト10世の死を以て断絶した。 ヴワディスワフ2世の息子でボレスワフ1世の弟であるミェシュコ1世(弱足公)を祖とする。曾孫ヴワディスワフの息子の代で3つに分流した。 ヴワディスワフ・オポルスキの長男ミェシュコ1世を祖とする。その息子の代でオシフィエンチムとチェシン公家に分流した。前者はヤン4世
ラチブシュ及びオポーレ公家
オシフィエンチム及びチェシン公家「pl:Piastowie cieszy?scy」も参照
オポーレ及びラチブシュ公家「pl:Piastowie opolscy」も参照
ミェシュコ1世の弟であるボルコ1世とプシェミスワフは、それぞれオポーレとラチブシュの公家を起こした。しかし、後者は早く絶え、前者が兼任する形となった。1532年のヤンの死を以て断絶した。
大ポーランド系「ヴィエルコポルスカ・ピャスト家」も参照