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ピピン3世
Pippin III
フランク国王
在位751年 - 768年
出生714年
フランク王国(現 ベルギー)ジュピユ=シュル=ムーズ
ピピン3世(ドイツ語:Pippin III, 714年 - 768年9月24日)は、フランク国王(在位:751年 - 768年)。アウストラシアの宮宰だったピピン1世(大ピピン)との対比で、「小ピピン(ドイツ語: Pippin der Jungere)」とも呼ばれる。また、「ピピン短躯王(フランス語: Pepin le Bref、ペパン・ル・ブレフ)」とも呼ばれる。フランク王国宮宰カール・マルテルの子。はじめネウストリアの宮宰(在職:741年 - 751年)およびアウストラシアの宮宰(在職:747年 - 751年)であったが、メロヴィング朝の国王キルデリク3世を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開いた[1]。 741年に父のカール・マルテルが死去し、権力はピピンと兄のカールマンの2人に継承された。庶子のグリフォにも割り当てがあった可能性はあるが、この異母弟はピピンとカールマンによってヌシャトー(en
生涯(フランス語版)で全フランク宮宰カール・マルテルとその妻クロドトルード(690年 - 724年)の間に次男として生まれた[2]。父カール・マルテルはランゴバルドから軍事的な支援を得るために、次男ピピンをランゴバルド王リウトプランドの養子とした[3]。744年にピピンはラン伯の娘であったベルトラダ(ベルトラード)[4]と結婚し何人かの子供をもうけた[注釈 1]。そのうち息子はカール、カールマンの2人が成人した。
ピピンの宮廷革命
ピピンは多くの土地を征服し、その権威は初代国王クローヴィス1世以来最も高まっていたが、754年にローマ教皇ステファヌス2世が彼をローマ貴族(パトリキ)に叙し[15]、パリのサン=ドニ大聖堂まで赴いて塗油した[11]ことで更に増した。このときピピンは王位の世襲を望み、ステファヌス3世は息子のカールとカールマンにも塗油を行なった[11][12][13]。
ピピンの寄進詳細は「ピピンの寄進」を参照
ピピンは王位承認の見返りの一環として、754年から755年にかけてランゴバルド王国のアイストゥルフスと戦い、ラヴェンナを奪って756年に教皇ステファヌス3世に献上した[11][16]。これはピピンの寄進と呼ばれ、後の教皇領の元となった[11]。また759年にはナルボンヌを奪還してサラセン人(イスラム帝国)をフランスから駆逐することに成功し[17]、さらにアキテーヌも王国に組み入れた[18][19]。
768年にピピンはサン=ドニで崩御し、サン=ドニ大聖堂に葬られた[20]。