ピナトゥボ山
噴火するピナトゥボ山(1991年6月12日)
標高1,486 m
所在地 フィリピン・ルソン島
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯15度08分30秒 東経120度21分00秒 / 北緯15.14167度 東経120.35000度 / 15.14167; 120.35000
ピナトゥボ山(ピナトゥボさん、ピナツボ山、Mt. Pinatubo)は、フィリピンのルソン島西側にある火山である。1991年に20世紀に陸上で発生した噴火として最大規模の大噴火を引き起こした[1][2]。噴火前に1745mあった標高は、噴火後に1486mまで低くなっている。
サンバレス州・バターン州・パンパンガ州の境界上に位置し、マニラから約95km離れている。1991年までは、ひどく侵食を受けた目立たない山だった。密林が山を覆い、先住民・アエタ族の数千もの人口を支えていた。アエタ族は、1565年にスペインがフィリピンを征服したときに、低地から山へ逃れた人々である。
1991年6月の噴火はおよそ400年ぶりに起きたもので、その規模と激しさは20世紀最大級だったが、噴火のピークを予測することに成功して、周辺地域から数万人を避難させ多くの人命が救われた。しかし、周辺地域では火砕流と火山灰に加え、火山堆積物に雨水がしみこんで流動化する火山泥流が発生して、田畑、集落、街を埋没させ、数千戸の家屋が倒壊するなど、周辺の5州におよび、死者847名、行方不明者23名、被害者総数120万人に達する多大な被害を出した。火山泥流は噴火後も毎年のように発生し続けている。
噴火の影響は世界中に及んだ。19世紀最大であった1883年のクラカタウの噴火以来の大量の大気エアロゾル粒子が成層圏に放出され、全球規模の硫酸エアロゾル(英語版)層を形成し何か月も残留した[3]。それにより地球の気温が約0.5℃下がり、オゾン層の破壊も著しく進んだ。
概観ピナトゥボ山の位置。1991年の噴火で降灰した地域が示されている。
ピナトゥボ山は、ルソン島の西端に連なる火山列の一峰である。このあたりの火山は、フィリピン海プレートがマニラ海溝から西へ向けてユーラシアプレートの下に潜り込むことで形成された、沈み込み帯の火山である。「ピナトゥボ (pinatubo)」とは、タガログ語とサンバル語で「生育させた」という意味である。15世紀に起きた前回の噴火を伝える名前の可能性があるが、地元住民の間に大噴火の言い伝えは無い。
1991年に噴火するまでは、周辺の人々にもほとんど知られていない地味な火山だった。標高が1745mあったが、周囲の台地からの比高は600mほどしかなく、周囲の峰々と比べてもせいぜい200m高いだけだった。そのために、山容の大部分が人の目から閉ざされていた。山の斜面や山麓には、スペイン人の迫害から逃れるために低地を捨てて来たアエタ族が、数世紀にわたって住み着いていた。
ピナトゥボ山の側面には約3万人が、バランガイと呼ばれる自治体や小さな集落を作って生活していた。山と周囲の山頂をほとんど覆い尽くすジャングルが狩猟集団のアエタ族を養った。モンスーン気候がもたらす豊富な降雨量(年間約4,000mm)と肥沃な火山性土の恩恵により、周辺の平地は農耕に適し、多くの人々が米などの主食を栽培した。噴火後も、山から40km以内の土地に約50万人が居住している。人口が集中しているのは、アンヘレス市(15万人)やクラーク空軍基地跡(2万人)などである[4]。
ブカオ川 (Bucao)、サントトーマス川 (Santo Tomas)、マロマ川 (Maloma)、Tanguay 川、Kileng 川など、複数の重要な水系がピナトゥボ山に水源をもつ。噴火以前、流域には貴重な生態系が拡がっていたが、噴火によって大半の渓谷が分厚い火山堆積物の底に埋もれた。それ以降、川は堆積物に塞がれ、谷あいでは頻繁に火山泥流が発生する。 ピナトゥボ山周辺には、前回の大噴火に関する伝承が無いように思われるが、1991年には数名のアエタ族から「古老の中に過去に起きた小規模な噴出現象を思い出した者がいる」という報告が寄せられている。ただし、ピナトゥボ山は1991年の噴火以前から地熱地帯として知られており、こういった地域では小規模な水蒸気爆発は珍しくない。火山活動の開始以後、地質学者は初めてこの地域の噴火の変遷を詳細に研究した。この領域の噴火は、大きく2つの時代に分けられる。 現在のピナトゥボ山周辺の起伏に富んだ地形の大半が、古期ピナトゥボ山の残滓である。古期ピナトゥボ山は現在の山と位置を概ね同じくし、約1100万年前に活動を始めたと見られている。古期ピナトゥボ山は、残存する山麓部分の傾斜からの推定で、標高2300mに達していた可能性がある。 新期ピナトゥボ山近傍の山には、元々古期ピナトゥボ山を取り巻いていた古い噴気孔に生じた岩栓や溶岩ドームから成るものがある。隣接する峰々も古期ピナトゥボ山の残余で、山の斜面が風雨で侵食されたあとに残った耐食性の高い部分である。 古期ピナトゥボ山の噴火活動は新期ピナトゥボ山ほど激しくなかった。噴火活動が終息したのは、おそらく約4万5000年前である。長い休眠期間のあと、約3万5000年前に始まった噴火活動により新期ピナトゥボ山が誕生した。 新期ピナトゥボ山が誕生した際、その噴火史における最大の爆発を引き起こしている。火砕流が山腹のあらゆる方向に流出し、その堆積の厚みは最大100mに及び、噴出物の総量は25km3に達した。マグマ溜まりから大量のマグマを噴出したために、山体が陥没して大きなカルデラが生じている。 それ以後も17,000年前、9,000年前、6,000-5,000年前、3,900-2,300年前に大噴火が起きている。そのすべてが10km3以上の噴出物を出し、周辺地域の大半を火砕流堆積物で覆いつくすほどの巨大噴火だったと考えられている。科学者の見積もりでは、1991年以前の最後の噴火は約500年前に起こったとみられ[5]、それ以後は休眠状態にあった。濃密な熱帯雨林が山腹を覆い尽し、斜面が浸蝕され峡谷が刻み込まれた。
地史
古期ピナトゥボ山
新期ピナトゥボ山
1991年の噴火
前兆
1990年7月16日 ルソン島中央部で1906年のサンフランシスコ地震に匹敵する、マグニチュード7.8のバギオ大地震が発生した。震源はピナトゥボ山の北東約100km。火山学者の中には、これが1991年の噴火の遠因と推測する者もいる[6]が、確固とした証明は不可能である。地震発生の2週間後、火山から蒸気が噴出していると地元民が報告したが、山を調査した科学者は噴火活動ではなく小さな地すべりが原因だと判断した。
1991年
3月15日 火山の北西にある村の住民が、地震を断続的に感じ始めた。それから2週間の間に地震は次第に強さを増していき、何らかの異変が迫っている事は明らかであった。
4月2日 火山の山頂直下に1.5kmの亀裂を生じ、そこから水蒸気爆発が発生。その後、小規模な噴出が数週間にわたって続き、周辺で火山灰が降った。地震計は毎日、数百件の火山性微動を検知した。火山学者たちはすぐに監視装置を設置し、前回の噴火の特徴をつかむべく火山の分析に入った。古い火山堆積物を放射性炭素年代測定にかけると、大規模な爆発的噴火がおよそ5,500年前、3,500年前、500年前の3回起きていたことが判明した。地質図を作成すると、周囲の平地の大部分が過去の噴火の火砕流と火山泥流で形成されたことがわかった。
Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef