ピッティ宮殿
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ピッティ宮殿前の広場 ピッティ宮殿の中庭

ピッティ宮殿(ピッティきゅうでん、:Palazzo Pitti)は、イタリアフィレンツェにあるルネサンス様式の広大な宮殿トスカーナ大公の宮殿として使用された。アルノ川の西岸に位置し、ウフィッツィ美術館とはヴァザーリの回廊を通じて結ばれている。

1587年フェルディナンド1世が即位して以降、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世によってイタリア国民に移譲されるまで、トスカーナにおける宮廷としての役割を果たし続けた[1]。約400年に渡り、メディチ家を中心として収集された絵画や宝飾品のコレクションは膨大な数にのぼる。現在この建物は、内蔵する美術品とともに美術館として一般に開放されている。
目次

1 沿革

1.1 初期

1.2 メディチ家

1.3 近代


2 特徴

3 年表

4 美術館

4.1 ピッティ美術館

4.2 近代美術館

4.3 銀器博物館

4.4 衣装博物館

4.5 陶磁器博物館

4.6 馬車博物館


5 ボーボリ庭園

6 脚注

7 参考文献

8 関連項目

9 外部リンク

沿革
初期 ルカ・ピッティの肖像

1457年、フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティ(英語版)はピッティ宮殿の建設に着手した。ピッティは、後に「祖国の父」と呼ばれるコジモ・デ・メディチのライバルであり、メディチ宮よりも優れた建物を作ることを望んでいた。後に自らの財政が悪化したときも、宮殿への投資は惜しまずに続けている。だがコジモの子ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチに対する陰謀発覚によって工事は中断され[2]、ピッティ宮殿の完成を見ることなく、ピッティは1472年に死去。ピッティの死とともに、宮殿の建設も中止された。
メディチ家 コジモ1世の肖像

ピッティの死から約100年を経た1550年頃、初代トスカーナ大公であるメディチ家の当主コジモ1世が、体調を崩しがちになった妻エレオノーラ・ディ・トレドのためにピッティ宮殿を買い取った。これにともない中断されていた宮殿の建設が再開された。宮殿の改修は、バルトロメオ・アンマナーティが担当し、宮殿の背後にある庭(現・ボーボリ庭園)の設計は、通称トリボロという芸術家の案に従って造られていったとされる[2]。庭と宮殿の整備は、1590年頃まで約半世紀近く、コジモ一世、フランチェスコ一世、フェルディナンド一世と三代にわたって続けられた[2]

1580年に現在のウフィッツィ美術館が完成し、その建物が政治の場として機能するようになると、コジモ1世およびその家族は私的な時間をピッティ宮殿で過ごすようになる。結果としてコジモ1世の公私の空間は、これら二つの建物に分離された[3] 宮殿内の壁画に描かれたメディチ家の紋章

また、多数の芸術家を支援したことで知られるメディチ家は、美術品の収集にも熱心だった。ルネサンスを代表する名画や宝飾品が、時の当主の手によって集められた。これらが現在のピッティ美術館の中心となる収蔵品である。

1737年、メディチ家最後のトスカーナ大公であるジャン・ガストーネが、後継ぎの男児が生まれないまま死去。少し遅れて1743年には、彼の姉であり最後のメディチことアンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチも世を去った。アンナ・マリーアの死によってメディチ家の主流が断絶したため、トスカーナ大公の地位およびピッティ宮殿の主人の座はロートリンゲン家のフランチェスコ2世神聖ローマ皇帝フランツ1世)が継承することになった。

アンナ・マリーアはその死に際し、「メディチ家のコレクションをフィレンツェから持ち出さない」ことを条件に、すべての美術品をトスカーナ政府に寄贈する遺言を残した。これによってメディチ家の収集品は散逸を免れた。
近代 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の肖像


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