ピエール=オーギュスト・ルノワール
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ピエール=オーギュスト・ルノワール
Pierre-Auguste Renoir
1875年頃撮影
誕生日 (1841-02-25) 1841年2月25日
出生地 フランス王国オート=ヴィエンヌ県リモージュ
死没年 (1919-12-03) 1919年12月3日(78歳没)
死没地 フランス共和国アルプ=マリティーム県カーニュ=シュル=メール
墓地 フランスオーブ県エソワ(英語版)共同墓地[1]
墓地座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度3分27秒 東経4度31分41秒 / 北緯48.05750度 東経4.52806度 / 48.05750; 4.52806
国籍 フランス
運動・動向印象派
芸術分野絵画
教育シャルル・グレール画塾、エコール・デ・ボザール
代表作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』、『舟遊びをする人々の昼食
受賞レジオンドヌール勲章3等(コマンドゥール)
後援者ジョルジュ・シャルパンティエ、ヴィクトール・ショケテオドール・デュレ、ポール・ベラール、ポール・デュラン=リュエルアンブロワーズ・ヴォラール[2]
影響を受けた
芸術家18世紀ロココ絵画、ドラクロワモネアングル
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ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 発音例、1841年2月25日 - 1919年12月3日[3])は、フランス印象派画家。後期から作風に変化が現れ始めたため、ポスト印象派の画家の一人として挙げられることもある。
概要

フランスの地図フランスイギリスオランダドイツベルギースイスイタリアスペインパリリモージュエソワカーニュ=シュル=メール地中海

ルノワールは、1841年、フランス中南部のリモージュで貧しい仕立屋の息子として生まれ、1844年(3歳)、一家でパリに移り住んだ。聖歌隊に入り、美声を評価されていた。1854年(13歳)、磁器の絵付職人の見習いとなったが、1858年(17歳)、失業した。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけていた(→出生、職人時代)。

1861年(20歳)、画家になることを決意してシャルル・グレールの画塾に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合った。フォンテーヌブローの森で一緒に写生もしている(→画塾時代(1860年代初頭))。1864年(23歳)、サロン・ド・パリに初入選し、以後度々入選している。経済的に苦しい中、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらった時期もあった。1869年(28歳)、ルーヴシエンヌの両親の家に滞在している時、モネとともに行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、印象派の特徴の一つである筆触分割の手法を生み出していった(→サロンへの挑戦(1863年 - 1870年))。1870年(29歳)、普仏戦争が勃発し、騎兵隊に従軍したが、1871年(30歳)、パリ・コミューンの動乱に揺れるパリに戻った。スパイと間違われ、一時逮捕される出来事もあった(→普仏戦争(1870年 - 1871年))。

パリ・コミューン終息後のサロンは保守性を増し、ルノワールや仲間の画家たちは落選が続いた。こうしたこともあって、モネやピサロとともに、共同出資会社を設立し、1874年(33歳)、サロンから独立したグループ展を開催した。後に「第1回印象派展」と呼ばれる展覧会である。写実性と丁寧な仕上げを重視するアカデミズム絵画が規範であった当時、新しい表現を志したグループ展は、世間から酷評にさらされ、経済的にも成功しなかった(→第1回印象派展まで(1871年 - 1874年))。1876年(35歳)には第2回展に参加、1877年(36歳)には第3回展に参加して大作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を出したが、これらも厳しい評価を受けた。その一方で、ヴィクトール・ショケ、ジョルジュ・シャルパンティエといった愛好家も獲得していき、特にシャルパンティエ夫妻はルノワールの重要なパトロンとなった(→第2回・第3回印象派展(1875年 - 1877年))。

1878年(37歳)、経済的見通しを重視してサロンに再応募し、入選した。その後サロンへの応募・入選を繰り返し、一方で第4回から第6回までの印象派展からは離脱した。私生活では、1879年(38歳)頃、未来の妻となるアリーヌと知り合い、交際を始めた(→サロンへの復帰(1878年 - 1880年))。この頃、形態が曖昧になりがちな印象派の技法に限界を感じていたところ、1881年(40歳)の時にアルジェリア、次いでイタリアに旅し、特にローマラファエロの作品に触れて大きな感銘を受けた。画商ポール・デュラン=リュエルの奔走を受けて1882年(41歳)の第7回印象派展に『舟遊びをする人々の昼食』などを出すが、この頃から明確な輪郭線が現れ始め、古典主義への関心が強まっている(→アルジェリア旅行・イタリア旅行(1880年代初頭))。そして、1883年(42歳)頃から1888年(47歳)頃にかけて、デッサン重視で冷たい「アングル風」の時代が訪れ、その集大成として『大水浴図』を制作した(→古典主義への回帰(1880年代半ば - 後半))。

1890年代以降は、「アングル風」を脱し、温かい色調の女性裸体画を数多く制作している。評価も定まり、『ピアノに寄る少女たち』が政府買上げになったり、勲章を授与されたりしている。私生活では、アリーヌと正式に結婚し、子にも恵まれた(→評価の確立(1890年代))。関節リウマチの療養のためもあって、南仏で過ごすことが多くなり、1900年代から晩年までは、カーニュ=シュル=メールで過ごし[4]、リウマチと戦いながら最後まで制作を続けた(→南仏カーニュ(1903年 - 1919年))。
生涯
出生、職人時代

ルノワールは、1841年、フランス中南部の磁器の町リモージュで生まれた。7人兄弟の6番目であったが、上の2人は早世し、他に兄2人、姉1人、弟1人がいた。父レオナールは仕立屋、母マルグリットはお針子であった[5]。後の印象派の画家たちがブルジョワ階級出身だったのに対し、ルノワールは1人労働者階級出身であった[6]

1844年、一家でパリに移住した。ルーヴル美術館の近くで、当時は貧しい人が暮らす下町であった[6]。幼い頃から絵への興味を示していたが、美声でもあったルノワールは、1850年頃(9歳前後)、作曲家シャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会(英語版)の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学んだ。ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーは、ルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申出があったことから、グノーの提案を断り、聖歌隊も辞めた[7]

1854年、磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなるが、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、1858年に職人としての仕事を失うこととなった[8]。ルノワールは、後に次のように回想している[9]。4年間の見習期間を終えて18歳になった時には、私の前には陶器絵師としての洋々たる未来が開かれていた。この仕事では、1日に6フラン稼ぐことができた。ところがその時、思いがけない大災厄が起こって、私の夢は台無しにされてしまった。……ちょうどその頃、陶器や磁器にプリントの絵付けをする方法が発明され、人々は手で描いた絵よりも機械の仕事の方を一層好むようになったのだ。

ルノワールは、次に扇子の装飾を仕事にし、アントワーヌ・ヴァトーフランソワ・ブーシェの有名な名作を複製した扇子を繰り返し描いた。この時、ルノワールは、ブーシェやジャン・オノレ・フラゴナールといった18世紀のロココ絵画に興味を持つようになったようである。その後、メダル制作の紋章描き、窓の日除けの装飾、カフェの壁の装飾など、職人としての仕事を次々手がけた[10]。仕事の合間に無料のデッサン学校に通い、1860年には、ルーヴル美術館で模写する許可を得た。特に、色彩派と言われるルーベンス、ブーシェ、フラゴナールを好んだ[11]
画塾時代(1860年代初頭)1861年の写真。

ルノワールは、画家になることを決意し、1861年11月、シャルル・グレールアトリエ(画塾)に入った[注釈 1]。ここでクロード・モネアルフレッド・シスレーフレデリック・バジールら、後の印象派の画家たちと知り合った。また、近くにアトリエを持っていたアンリ・ファンタン=ラトゥールとも知り合った[12]。グレール自身は、保守的なアカデミズムの画家であったが、生徒たちに、安い費用で、モデルを使って自由に描くことを許していたので、様々な傾向の画学生が集まっていた[13]。ルノワールは、後に、グレールは「弟子にとって何の助けにもなってくれなかった」が、「弟子たちに思うようにさせる」という長所はあったと振り返っている[14]。グレールが、画塾で制作中のルノワールの色遣いを見て、「君、絵具を引っかき回すのが、楽しいんだろうね。」と言うと、ルノワールが「もちろんです。楽しくなければやりません。」と応えたというエピソードが知られている[15]。グレールの保守的な指導に飽き足らない点で、モネやルノワールは共感を深めていった[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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