ピエール=オーギュスト・ルノワール
Pierre-Auguste Renoir
1875年頃撮影
誕生日 (1841-02-25) 1841年2月25日
出生地 フランス王国・オート=ヴィエンヌ県リモージュ
死没年 (1919-12-03) 1919年12月3日(78歳没)
死没地 フランス共和国・アルプ=マリティーム県カーニュ=シュル=メール
墓地 フランス・オーブ県エソワ
ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 発音例、1841年2月25日 - 1919年12月3日[3])は、フランスの印象派の画家。後期から作風に変化が現れ始めたため、ポスト印象派の画家の一人として挙げられることもある。
概要カーニュ=シュル=メール地中海
ルノワールは、1841年、フランス中南部のリモージュで貧しい仕立屋の息子として生まれ、1844年(3歳)、一家でパリに移り住んだ。聖歌隊に入り、美声を評価されていた。1854年(13歳)、磁器の絵付職人の見習いとなったが、1858年(17歳)、失業した。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけていた(→出生、職人時代)。
1861年(20歳)、画家になることを決意してシャルル・グレールの画塾に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合った。フォンテーヌブローの森で一緒に写生もしている(→画塾時代(1860年代初頭))。1864年(23歳)、サロン・ド・パリに初入選し、以後度々入選している。経済的に苦しい中、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらった時期もあった。1869年(28歳)、ルーヴシエンヌの両親の家に滞在している時、モネとともに行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、印象派の特徴の一つである筆触分割の手法を生み出していった(→サロンへの挑戦(1863年 - 1870年))。1870年(29歳)、普仏戦争が勃発し、騎兵隊に従軍したが、1871年(30歳)、パリ・コミューンの動乱に揺れるパリに戻った。スパイと間違われ、一時逮捕される出来事もあった(→普仏戦争(1870年 - 1871年))。
パリ・コミューン終息後のサロンは保守性を増し、ルノワールや仲間の画家たちは落選が続いた。こうしたこともあって、モネやピサロとともに、共同出資会社を設立し、1874年(33歳)、サロンから独立したグループ展を開催した。後に「第1回印象派展」と呼ばれる展覧会である。写実性と丁寧な仕上げを重視するアカデミズム絵画が規範であった当時、新しい表現を志したグループ展は、世間から酷評にさらされ、経済的にも成功しなかった(→第1回印象派展まで(1871年 - 1874年))。1876年(35歳)には第2回展に参加、1877年(36歳)には第3回展に参加して大作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を出したが、これらも厳しい評価を受けた。その一方で、ヴィクトール・ショケ、ジョルジュ・シャルパンティエといった愛好家も獲得していき、特にシャルパンティエ夫妻はルノワールの重要なパトロンとなった(→第2回・第3回印象派展(1875年 - 1877年))。
1878年(37歳)、経済的見通しを重視してサロンに再応募し、入選した。その後サロンへの応募・入選を繰り返し、一方で第4回から第6回までの印象派展からは離脱した。私生活では、1879年(38歳)頃、未来の妻となるアリーヌと知り合い、交際を始めた(→サロンへの復帰(1878年 - 1880年))。この頃、形態が曖昧になりがちな印象派の技法に限界を感じていたところ、1881年(40歳)の時にアルジェリア、次いでイタリアに旅し、特にローマでラファエロの作品に触れて大きな感銘を受けた。画商ポール・デュラン=リュエルの奔走を受けて1882年(41歳)の第7回印象派展に『舟遊びをする人々の昼食』などを出すが、この頃から明確な輪郭線が現れ始め、古典主義への関心が強まっている(→アルジェリア旅行・イタリア旅行(1880年代初頭))。そして、1883年(42歳)頃から1888年(47歳)頃にかけて、デッサン重視で冷たい「アングル風」の時代が訪れ、その集大成として『大水浴図』を制作した(→古典主義への回帰(1880年代半ば - 後半))。
1890年代以降は、「アングル風」を脱し、温かい色調の女性裸体画を数多く制作している。評価も定まり、『ピアノに寄る少女たち』が政府買上げになったり、勲章を授与されたりしている。