ピエール・ルヴェルディ
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ピエール・ルヴェルディ
Pierre Reverdy
アメデオ・モディリアーニによるピエール・ルヴェルディの肖像(1915年)
誕生アンリ=ピエール・ルヴェルディ
(1889-09-11) 1889年9月11日
フランスナルボンヌオクシタニー地域圏オード県
死没 (1960-06-17) 1960年6月17日(70歳没)
フランス、ソレム(ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏サルト県
墓地ソレム墓地
職業詩人
言語フランス語
国籍 フランス
活動期間1915年-1959年
ジャンル、芸術論、美学
文学活動キュビスムダダイスムシュルレアリスム
代表作『楕円形の天窓』
『眠るギター』
『描かれた星たち』
『天の漂着物』
『毛皮の手袋』
『風の泉』
『屑鉄』
「イマージュ論」
デビュー作『散文詩集』
影響を与えたもの

アンドレ・ブルトントリスタン・ツァラパブロ・ピカソジョルジュ・ブラック

署名
ウィキポータル 文学
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ピエール・ルヴェルディ(Pierre Reverdy、1889年9月11日 - 1960年6月17日)は、フランス詩人マックス・ジャコブギヨーム・アポリネールとともに前衛芸術・文学雑誌『南北』を創刊し、主筆を務めた。特に同誌に掲載されたイマージュ論は、アンドレ・ブルトンを中心とするシュルレアリスム運動の理論化に大きな影響を及ぼした。また、キュビスムの詩人と称され、その美学論(リリスム)はピュリスムにも大きな影響を与えた。37歳でカトリックに帰依し、北西部サルト県ソレムに移り住み、詩的探求・創作に専念。ジョルジュ・ブラックパブロ・ピカソフアン・グリスらキュビスムの画家との詩画集の制作は生涯にわたって続いた。
生涯
背景

ピエール・ルヴェルディは1889年9月11日、スペインとの国境に近いナルボンヌオクシタニー地域圏オード県)に生まれた。助産婦が市役所に提出した出生届には、姓が書かれておらず、「アンリ=ピエール」という名前のみで、生年月日は「1889年9月13日」、さらに「父親・母親不明」と書かれていた[1][2][3][4][5]。当時、母ジャンヌ=ローズ・テュルカン(旧姓エスクロピエ)の夫ヴィクトル=レオポルド・テュルカンは2年前からアルゼンチンに住んでおり、二人が1985年に離婚したとき(1985年)、「アンリ=ピエール」の出生届に実父の姓「ルヴェルディ」が記載された。息子と同名の実父アンリ=ピエール・ルヴェルディがジャンヌ・ローズと結婚したのは2年後の1987年のことだが、ジャンヌ=ローズが認知したのは1911年、ルヴェルディが22歳になったときのことであり、このとき初めて出生届に母親の氏名が記載されることになった[1]

父アンリ=ピエールはノワール山脈のふもとでブドウを栽培していたが、ルヴェルディ家は代々教会彫刻石工の仕事を引き受けていた。母ジャンヌはルヴェルディの生後まもなくトゥールーズに移り住んだため、彼は義姉のアンリエットとともに同地で初等教育を受けた。両親の結婚後にナルボンヌのヴィクトル・ユーゴー中学校に入学したが、数年後に両親が離婚すると、母はアンリエットを連れて同じナルボンヌの別の地区に引っ越し、ルヴェルディは父親のもとに留まることになった[5]

オード県ナルボンヌを含む旧ラングドック=ルシヨンはフランス最大のブドウ生産地の一つだが、19世紀中頃からの鉄道の発達に伴って大消費地パリ向けの並級のワインが大量に生産され、この頃、生産過剰、価格暴落、失業者増加といった深刻な問題に直面していた。この結果、1907年6月20日にナルボンヌのブドウ栽培者による大規模な暴動が起こり、死傷者が出る事態となった(1907年ブドウ栽培者の暴動:fr:Revolte des vignerons de 1907))[6]。ルヴェルディの父はこの影響で破産し、土地を失うことになった。この事件は少年であったルヴェルディに精神的な痛手を与え、「体制とその奉仕者らに対する嫌悪」を抱かせたとされる[7]
パリの前衛芸術・文学活動
『南北』誌 - イマージュ論

1909年、徴兵制度により兵役に服する年齢に達したが、「心臓病」を理由に免除され[1]、翌1910年、パリに出たルヴェルディは、友人の画家の紹介で当時まだ貧しかった画家や作家が住んでいたモンマルトルに部屋を借り、翌年、同地区ラヴィニャン通り13番地の「洗濯船(バトー・ラヴォワール)」の詩人マックス・ジャコブのもとに身を寄せた[8]。ピカソが1906年から1907年にかけて『アビニヨンの娘たち』を描いた場所、キュビスムが誕生した場所として知られる古い木造家屋である[9]。「洗濯船」に住んでいたのは、ピカソ、マックス・ジャコブのほか、同じくスペイン出身の画家フアン・グリス彫刻家のパコ・ドゥリオことフランシスコ・ドゥリオ(フランス語版)、オランダ出身の画家キース・ヴァン・ドンゲンイタリア出身の画家アメデオ・モディリアーニ、詩人のアンドレ・サルモン(フランス語版)、作家のピエール・マック・オルラン(フランス語版)らであったが、入居者だけでなく、モーリス・ド・ヴラマンクジョルジュ・ブラックマリー・ローランサン、ギヨーム・アポリネール、アンリ・マティスアンリ・ルソーなど多くの画家や作家が出入りする前衛芸術・文学の拠点であった[10]ルヴェルディ、ピカソらが住んでいたモンマルトルの「洗濯船」(1910年頃)

1917年3月に、マックス・ジャコブ、アポリネールとともに『南北』誌を創刊し、主筆を務めた。キュビスムの雑誌、ダダイスム、次いでシュルレアリスムの先駆けとされる前衛芸術・文学雑誌であり、誌名『南北』は、1910年にパリの2つの前衛芸術家・文学者の活動拠点モンマルトル(パリ北部)とモンパルナス(パリ南部)をつなぐ地下鉄が開通したことに因んで命名され、この2つの拠点をつなぐことを意図したものであった(「貧乏人のヴィラ・メディチ」と呼ばれ、主に亡命画家のマルク・シャガールシャイム・スーティンらが住んでいたモンパルナスの「ラ・リューシュ(蜂の巣)」は、モンマルトルの「洗濯船」に匹敵する若い芸術家の活動拠点であった[11])。


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