ピエール・リトバルスキー
母国マインツのイベントにて(2023年)
名前
愛称リティ[1]、スタン[2]
ラテン文字Pierre LITTBARSKI
基本情報
国籍 ドイツ
生年月日 (1960-04-16) 1960年4月16日(64歳)
出身地西ベルリン、シェーネベルク
ピエール・リトバルスキー[3](Pierre Littbarski, 1960年4月16日 - )は、西ベルリン出身のドイツの元サッカー選手、現サッカー指導者。 父親の先祖はロシアからの移民である[4]。1960年、税務署に勤務する父親と秘書の仕事をする母親の間に、西ベルリンのシェーネベルク 移籍2年目の元サッカー日本代表の奥寺康彦とチームメイトになった。1.FCカイザースラウテルンとのプレシーズンマッチでデビュー。シーズンに入るとすぐさまレギュラーに定着してリーグ戦16試合に出場した。1980年10月に1.FCケルン監督に就任したリヌス・ミケルスは20歳のリトバルスキーをキャプテンに指名したが、厳格で規律を重んじる監督との間には確執が生じ、1983年に監督が退任するまで対立は続いた[6]。 1982-83シーズンのDFBポカール決勝のSCフォルトゥナ・ケルン戦では優勝を決める得点を挙げた。その後数年間はスランプに陥り、ドイツ代表の南米遠征でのホンジュラス戦ではプロデビュー後初めてレッドカードによる退場処分を受けたが[7]、1985-86シーズンのUEFAカップではハンマルビーIFやスポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルを破って決勝に駒を進め、レアル・マドリードに2試合合計3-5で敗れたものの準優勝を果たした。 1986年夏、フランス・ディヴィジオン・アン(1部)に昇格したばかりのラシン・パリに移籍したが、開幕から低迷を続けたうえにフランスの文化や習慣になじめず[8]、わずか1年の在籍で1.FCケルンに復帰した。DFモアテン・オルセン、MFトーマス・ヘスラー、GKボド・イルクナーなどの名選手がいたチームは快進撃を続け、1988-89シーズンには30試合5ゴール11アシスト[9]、1989-90シーズンには34試合8ゴール11アシストの活躍で[10]、2シーズン連続して2位の好成績を収めた。 1990年9月7日のトレーニング中に靭帯断裂の大怪我を負い、8か月の離脱を余儀なくされた[11]。1991-92シーズンはチームメイトのモーリス・バナッハの事故死という悲しい出来事があったにもかかわらずリーグ戦で4位に入ったが、1992-93シーズンはツヴァイテ・リーガ(2部)降格の危機に瀕し、さらに外出禁止中に交通事故を起こして監督と衝突したため、クラブを離れる決断をした[12]。リーグ29節のニュルンベルク戦では2ゴールを決めて1部チームを残留に導いた[13]。ラストシーズンは26試合3ゴール10アシストの成績を残した[14]。 ブンデスリーガでの通算成績は406試合に出場して116得点[15]、欧州カップ戦には53試合に出場して16得点を記録している。2万2000人の観客を集めて行われたお別れ試合にはGKハラルト・シューマッハー、モアテン・オルセン、DFギド・ブッフバルト、トーマス・ヘスラー、MFローター・マテウス、FWカール=ハインツ・ルンメニゲなどの名選手がずらりと勢ぞろいし、試合に出場した選手とフランツ・ベッケンバウアー監督の代表キャップ数を合計すると1100にも上った[16]。 1993年、1.FCケルンとの契約満了に伴いジェフユナイテッド市原へ移籍、推定年俸は当時の外国人選手としてはリーグ第2位の2億5000万であった[17]。
選手経歴
プロデビュー前
1.FCケルン時代
ジェフ市原