ピエール・フルニエ
ピエール・フルニエ (1941年)
基本情報
生誕 (1906-06-24) 1906年6月24日
出身地 フランスパリ
死没 (1986-01-08) 1986年1月8日(79歳没)
学歴パリ音楽院
ジャンルクラシック音楽
職業チェロ奏者
担当楽器チェロ
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ピエール・フルニエ(Pierre Fournier ,1906年6月24日 - 1986年1月8日)は、フランスのチェリストである。ソリストとしても、室内楽奏者としても活躍した。また、フランスやスイスで教鞭をとった。 1906年6月24日、パリに生まれる[1]。祖父は彫刻家、父はコルシカ総督を務めたこともある将軍、母はピアニストであった[2]。また、弟のジャンはヴァイオリニストとなった[2]。 はじめは母からピアノを学んだが、9歳の時に小児麻痺にかかって右足の自由を失ったためチェロに転向し、12歳でパリ音楽院へ入学してポール・バズレールとアンドレ・エッキングに師事した[1][2][3]。なお、パブロ・カザルスに助言を求めることもあった[4]。5年後に一等賞を獲得して卒業し、さらにバズレールのもとで修練を積んだのち、1924年にパリでデビューした[2]。 1927年にはコロンヌ管弦楽団のソリストとして迎えられ、フランス各地およびヨーロッパ各国での演奏活動を開始した[2]。1934年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演して大成功を収めた[2]。第二次世界大戦後にはさらにキャリアが発展し、1948年にアメリカデビューを果たしてからは、毎年のように当地で演奏した[2][3]。 オーケストラとの共演だけでなく、フルニエは室内楽にも情熱を注いでいた[2]。1928年にはヴァイオリニストのガブリエル・ブイヨン、ピアノのヴラド・ペルルミュテールとトリオを結成した[2]。また、ピアニストのアルフレッド・コルトーとヴァイオリニストのジャック・ティボーともしばしば共演した[5]。 第二次世界大戦後にはヴァイオリニストのヨゼフ・シゲティ、ヴィオラ奏者のウィリアム・プリムローズ、ピアニストのアルトゥル・シュナーベルとともにカルテットを結成し、1947年の第1回エディンバラ音楽祭など、ヨーロッパ各地で演奏した[2][3]。このカルテットはシューベルトとブラームスの室内楽をすべて演奏しており、メンバーの1人であるヨゼフ・シゲティは「最高の音楽体験」だったと語っている[3]。また、シュナーベルは、1948年のフルニエのアメリカデビューに際し、素晴らしいチェリストがリサイタルを開くと周りに宣伝して、フルニエのキャリアが発展するようサポートした[5]。 また、デュオとしてもピアニストのヴィルヘルム・ケンプ、ヴィルヘルム・バックハウス、アルトゥール・ルービンシュタイン、フリードリヒ・グルダらと共演した[2]。なお、ケンプとは特に親しく、1954年の日本における演奏ツアーでは、フルニエとは別のツアーで同じく日本を訪れていたケンプと合流して、当初の予定にはなかった特別演奏会を開催した[2][5]。 1937年から3年間、フルニエはエコールノルマル音楽院でチェロと室内楽を教え、1941年にはパリ音楽院に招聘された[1]。ただし、多忙な演奏活動のため、1949年にパリでの教育活動を断念した[1][3]。 1956年以降はジュネーヴに住み、演奏活動の拠点とした[1]。また、ジュネーヴとチューリヒで毎夏講習会を開き、ピアニストである息子のジャン・フォンダ(本名ジャン・ピエール)とともに、世界各国からやってくる学生を指導した[6][7]。 1986年1月8日に現役のまま急死[5][8]。1986年には日本での最後のリサイタルを行う予定であったが、本人の死去によって中止となった[8]。 弟子の1人リチャード・マークソンは、フルニエの性格について「とても内気で、引っ込みがちの人で、自負心は十分にあってもそれを過度に示すことは決してありませんでした」と述べつつ「さりげないユーモアの持ち主」でもあったと述べている[5]。
生涯師アンドレ・エッキング (1900年)盟友のピアニストヴィルヘルム・ケンプ(右)。左は指揮者のエルネスト・アンセルメ (1965年)。フルニエ像 (2019年)。
幼少期・学生時代
国際的な演奏活動
教育活動と晩年
人物
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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