ピエール・ナヴィル
Pierre Naville
誕生 (1904-02-01) 1904年2月1日
フランス、パリ
死没 (1993-04-24) 1993年4月24日(89歳没)
フランス、パリ
墓地ペール・ラシェーズ墓地
職業作家、政治活動家、社会学者
言語フランス語
教育博士
最終学歴ソルボンヌ大学
ジャンル詩、短篇小説、文芸評論、翻訳、社会学、心理学、哲学、回想録
主題自動記述、夢、マルクス主義、レフ・トロツキー、ソビエト連邦
文学活動シュルレアリスム
代表作『新リヴァイアサン』
『生けるトロツキー』
『超現実の時代』
主な受賞歴アカデミー・フランセーズのファビアン賞
ピエール・ナヴィル(Pierre Naville、1904年2月1日 - 1993年4月24日)は、フランスの作家、政治活動家、社会学者。シュルレアリスム運動に参加し、自動記述の試み『左手の女王たち』を発表。アラゴン、ブルトン、ペレとともに1924年に機関誌『シュルレアリスム革命』を創刊し、第3号までペレと共同で編集した。
1926年に共産党に入党したが、トロツキーの左翼反対派(フランス語版)の活動を支持し、1928年に除名。トロツキストの機関紙『階級闘争』、『ラ・ヴェリテ(フランス語版)(真実)』を創刊・主宰。1960年から1990年まで統一社会党員として活動する一方、第二次大戦後から労働社会学(フランス語版)の研究に専念した。
邦訳に回想録『超現実の時代』、『生けるトロツキー』、ワトソンの行動主義心理学に関する『心理学 - 行動の科学』などがある。
生涯
背景(フランス語版)に生まれた。母方はカトリック、父方はプロテスタントで[1]、親族には教員や牧師が多かった[2]。父方の祖父ピラム・ナヴィル(Pyrame Naville、1848-1921)はオスマン帝国銀行(Banque imperiale ottomane)のパリ支店長を務め、東洋金融会社(Societe Financiere d’Orient)およびイズミル・カサバ(Kasaba(カスタモヌ県))鉄道会社の経営責任者、駐仏セルビア総領事を歴任した[3]。
父アルノルト(Arnold Naville、1879-1952)も銀行員であったが、文学に造詣が深く、『新フランス評論』誌を購読し、同誌の創刊者の一人である文豪アンドレ・ジッド、および同誌を刊行したガリマール社の経営責任者ガストン・ガリマールと親しかった[2][4]。アルノルトは特にジッドの愛読者であり、彼の著書目録を作成するほか[5]、彼の戯曲『フィロクテート(Philoctete)』を音楽担当も含めて家族全員で上演し、上演会にジッドを招待するほどであった[2][6]。現在ヴェルニエ市庁舎となっているナヴィル家の城館[6][7]
一家はもともとジュネーヴ州(スイス)のジュネーヴに近いヴェルニエに城館を構えていたため、ナヴィルはパリの邸宅とヴェルニエの城館を行き来して過ごすほか、休暇には母、ジャック、マルク、ルネの兄弟姉妹とともに大西洋岸の海水浴場(北部のカルヴァドス県、西部のフィニステール県、南西部のビアリッツ)、ジュラ山脈、マッターホルンのふもとのヴァレー州(スイス)などに滞在するなど幸福な子ども時代を送った[2]。ナヴィルは後に回想録にやや自嘲を込めて「教養あるブルジョワ家庭」に育ったと記し[6]、実際、後に「現実生活におけるブルジョワ性の打破を目指して」[8]シュルレアリスム批判、そして労働運動・社会改革運動に取り組むことになるが(後述)、家族との関係は常に良好で、特にヴェルニエにいることの多かった父とは6歳のときから父が死去する1952年まで継続的に手紙のやり取りをしている[6][9]。 父宛の手紙によると、ナヴィルは子どもの頃にイギリスの小説家H・G・ウェルズの『タイム・マシン』や『神々の糧』、ラ・フォンテーヌの『寓話』、ユーゴーの『城主』、『クロムウェル』、ラマルティーヌの『ジョスラン』や『瞑想詩集』、プルタルコスの『対比列伝』などを愛読し、父から送られる雑誌や新聞を読んで国際経済情勢や内政にも早くから関心を示していた[6]。
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