ピエール・ド・フェルマー
生誕ピエール・フェルマー
1607年10月31日 - 12月6日[1]
フランス王国、ボーモン=ド=ロマーニュ
死没1665年8月17日(57歳)
フランス王国、カストル
研究分野数学、法律
出身校オルレアン大学
主な業績数論・解析幾何学・確率論への貢献
デカルトの正葉線
フェルマーの原理
フェルマーの小定理
フェルマーの最終定理
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ピエール・ド・フェルマー(フランス語: Pierre de Fermat、1607年10月31日から12月6日[1] - 1665年1月12日)はフランスの裁判官であり数学者。フェルマーの定理で知られ、「数論の父」とも呼ばれる。
略歴
1607年10月31日から12月6日[1] - 南フランスのトゥールーズ近くのボーモン=ド=ロマーニュに生まれる[2]。
1631年 - トゥールーズの請願委員となり、母の従姉妹のルイズ・ド・ロンと結婚。
1648年 - トゥールーズ議会の勅選委員となる(死ぬまでこの地位にあり続けた)。
1665年1月12日 - 死去
農民が空腹と貧困で一揆を起こしていた時期に、フランスの小さな農村で誕生した。正確な生年月日は確定されていない。従来は1601年生まれとされていたが、墓碑銘に記されている「1665年1月12日 57歳で死す」との記述と没年齢との矛盾が不可解であった。
墓碑銘の記述[1][3]ラテン語原文(角括弧内は補足)日本語訳
OB.[iit] XII. IAN[uarii] .M.DC.LXV. AET[ate] .AN.[norum] .LVII.1665年1月12日 57歳で死す
2001年にカッセル大学のクラウス・バーナー(Klaus Barner)名誉教授は、従来の説が1601年8月17日に生まれて生後すぐ死んだ異母兄ピエール(Piere;rが1つ)との混同によるものであることを指摘し、この矛盾を解消した[4][2]。その後の2007年の調査により、生年月日は1607年10月31日から12月6日の間であることが絞り込まれた。
父ドミニクは富裕な毛皮商人であり、母クレールは法律家の家系の出であった。1631年法学士の学位を得、トゥルーズ議会の勅選議員となったのを機会に貴族の標「ド」を得てピエール・ド・フェルマーとなる。 法律家としての職務の傍ら、数学の研究を趣味としていた。数学においては、パスカルと共同で確率論の基礎を作り、デカルトと文通を交わしながらデカルトとは独立に解析幾何学を創案するなどの功績を残す。解析幾何学については、デカルトが二次元での理論にとどまったのに対し、フェルマーは三次元空間でも考えていた。その他、幾何学、微分積分学といった諸分野においても先駆的な仕事を遺しており、特に数論における仕事は独創的で後世の数論家たちに大きな影響を与えた。 数論への傾倒の直接的な契機は、古代ギリシャの数学者ディオファントスが著した『算術』(Arithmetica) の注釈本を1630年ごろに手に入れて研究したことのようである[5]。『算術』を熟読していくうちに彼はその余白に有名な48の注釈を書き込んだ[5][6]。フェルマーの数論における仕事が世に知られるようになったのは、その死後に長男のサミュエルが『算術』を父の書込み付きで再出版してからであり、数論の研究においては事実的に孤立していた[5]。
業績