ピエール・コーション(仏: Pierre Cauchon、1371年 - 1442年12月18日)は、フランスの聖職者。
ブルゴーニュ派・親イングランド派の聖職者としてボーヴェ司教(フランス語版)に出世し、1431年2月から5月にかけてのジャンヌ・ダルクの異端審問において裁判長を務めた。 1371年頃、ランスに生まれた。出自は定かではない。農民の子とも、ランスに移住した貴族の家柄の子ともいわれる[1]。後のイングランド王ヘンリー6世の秘書ジャン・ド・リネル
経歴
ジャンヌの裁判まで
教会法学士としての法律知識と弁論術が評価されて、パリ大学学長、ランスとボーヴェの参事会会員、ランス・ノートルダム大聖堂司教代理などを歴任した[2]。特にパリ大学を代表する立場を主に使用した[3]。
パリではブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)の取り巻きの一人となり、1413年のカボシュの反乱(フランス語版)の際にはその首謀者の一人として下層民の扇動にあたった。そのため1413年9月27日にアルマニャック伯(フランス語版)ベルナール7世がパリに入城してくると、パリから追放された[2]。
1414年から1418年にかけて開催されたコンスタンツ公会議にブルゴーニュ公の命によりブルゴーニュ派として出席し、オルレアン公ルイ・ド・ヴァロワ暗殺を正当化するジャン・プティの説を支持した[2]。
その後、破毀院の調査官となり、パリ大学代表者として様々なブルゴーニュ派のための任務をこなした。甥のジャン・ド・リネルとともにシャルル皇太子(シャルル7世)の王位継承権を否定するトロワ条約の起草にあたったのもその一つだった[2]。同条約遵守の誓約人も務めた[4]。
1420年からボーヴェ司教(フランス語版)に就任した。この司教職には慣例としてパリ大学の諸特権保護者というポストが付随していたので、この後もパリ大学代表者として行動した[3]。
イングランド摂政ベッドフォード公ジョンの意向に従って、1421年にはパリ司教(フランス語版)ジャン・クルトキュイス(フランス語版)をジュネーヴに遠ざけるなどの政治工作にあたった[2]。
1429年5月にジャンヌ・ダルクがオルレアンを解放し、7月にシャルル7世をランスに導いた際、コーションは聖体祝日の行列に参加するために直前までランスに滞在していたが、フランス軍の接近を聞いてボーヴェへ逃げ帰った。