ピエドラス・ネグラス
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、グアテマラ、ペテン低地にある古典期マヤ遺跡について説明しています。メキシコ、コアウィラ州の都市については「ピエドラス・ネグラス (コアウイラ)」をご覧ください。
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2017年10月)
玉座1号。「偉大な太陽・亀の歯」の名前のある「支配者7」(位781-808?)によって西のアクロポリスの回廊J-6に奉納された。808-810年前後に反乱、暴動によってピエドラス・ネグラスの王朝が崩壊するときにこの玉座もばらばらに破壊されたと思われる。ピエドラス・ネグラス石碑1号。キニチ・ヨナル・アーク2世の即位後のカトゥンの儀礼についてや、王妃カトゥン・アハウについての記述がある。

ピエドラス・ネグラス (Piedras Negras) は、グアテマラペテン地方西部のウスマシンタ川北岸に位置する古典期マヤ遺跡のひとつ。現在はシエラ・デル・ラカンドン国立公園の一部となっている。 ピエドラス・ネグラスという名はスペイン語で黒い石を意味する。古代マヤ語でYo'k'ib(ヨキブ)と呼ばれており、「大きな門」もしくは「入り口」を意味し、これは遺跡のすぐ近くにある現在は干上がっている巨大なセノーテに由来すると推測される。また、祭壇4などに見られる未解読文字Paw stone(ポー・ストーン、複合文字であり、未解読であるPaw(ネコ科動物などの爪のついた足)と既に解読されているTuun(石)の組み合わせ)も地名を表しているとされ、この遺跡が創設された当時の地名である可能性が高い。

この遺跡は、西グループ、東グループ、南グループに分けられる。西と南のグループはそれぞれ球戯場や広場を備える。アーチ状の屋根を持つ宮殿や神殿ピラミッドが立ち並び、それらの一つは遺跡内に数ある洞窟のうちの一つとつながっている。また、ウスマシンタ川の川岸には、ヨキブ (Yo’ki’b) の紋章文字が彫られた巨石がある。
王国史

ピエドラス・ネグラスは、ウスマシンタ川流域で一時は最大の勢力を誇った王国の首都である。ウスマシンタ川の40キロメートル上流にはライバルであったヤシュチランがあり、サン・ペドロ・マルティル川とウスマシンタ川に挟まれた地域にはラ・オンラデス、パハラルやサポテ・ボバルなど中小規模都市で構成されたHix Witz(ジャガーの丘)同盟が存在した。出土した土器から推測されるに、紀元前7世紀中頃から定住が始まり、紀元850年頃にはその他の古典期マヤ都市センターと同様に放棄された。王国が創始された時代は判明していないが、当初は小規模の都市であったと見られる。紀元450年頃からヤシュチランの碑文においてピエドラス・ネグラスの王が敗者として刻まれるなど、この時代には既に重要な都市センターになっていた。古典期前期の碑文はわずかしか残されていないが、後の時代の碑文には紀元500年頃にテオティワカンの影響があったことを物語る記述がある。彫刻と建築が最も活発に行われたのは、紀元608年から紀元810年にかけてである。紀元608年は石碑25が作られた年であり、その彫刻にはキニチ・ヨナル・アーク1世の即位の様子が描かれている。この時代以降、ウスマシンタ川流域のライバルであるヤシュチランとの抗争の他に、ペテン地方西部に勢力を伸ばしてきたペテン地方中部やペテシュバトゥン地方の勢力とも争うことになる。他の古典期マヤ王国が衰退していくなかで、紀元8世紀後半においてピエドラス・ネグラスの芸術活動は最高峰に達し、石板3や石碑14、石碑15、玉座1などを作成した。ピエドラス・ネグラスのモニュメントのユニークな特徴は、いわゆる「芸術家の署名」が多々見られることである。多い例では、石碑12に8人の署名が見られる。だが、紀元808年にヤシュチランとの戦争に敗れた後、紀元810年の祭壇3を最後に長期暦を刻んだ彫刻は作成されなくなり、まもなくこの都市は終焉をむかえることになる。都市が放棄される前に、玉座1などいくつかのモニュメントが故意に破壊されており、支配者を描いた肖像や文字に対しては損傷を加えられたが、神々を描いた肖像と文字は無傷のままであった。このことはマヤ文字を読み書きできる人々によって、反乱若しくは征服が行われたことを示している。ただし、ウスマシンタ川は重要な交易路であり、王国が滅んだ後も人が住んでいた形跡がある。
研究史

ピエドラス・ネグラスの名が文献に初めて登場するのは、1892年に出版されたフランス人リュドビク・シャンボンの旅行記においてである。このガスコーニュ人は、近くにあった小さな伐採キャンプの名をとって、この遺跡をピエドラス・ネグラス(黒い石)と名づけた。名前の由来は、建造物に使用された石の色である。

1894年、きこりに案内されたオーストリア人写真家テオベルト・マーラーが遺跡を訪れ、1901年、ハーヴァード大学ピーボディー博物館より彼の写真と報告書を収めた論文集が発行された。1931年より、ペンシルベニア大学博物館アメリカ部門責任者ジョン・オールデン・メイソンの主導の下、ピエドラス・ネグラスの発掘プロジェクトが開始される。1932年、プロジェクトの責任者はリントン・サタースウェイト・ジュニアに引き継がれ、彼の下で1939年まで調査が行われた。ペンシルベニア大学はフィラデルフィアにある博物館に展示するためのモニュメントを手に入れることを望み、大規模な発掘プロジェクトを計画した。ピエドラス・ネグラスがその対象に選ばれたのはカーネギー研究所シルヴェイナス・グリスヴォルド・モーリーアルフレッド・V・キダーの助言による。

メイソンとサタースウェイトらによる調査は、一部を除いてなんら結論を出せぬまま終了したが、発掘の過程で得た大量の重要な発見は研究者たちに提供され、カーネギー研究所によるチチェン・イッツアワシャクトゥンの調査などとともにマヤ地域の考古学の発展に大いに貢献した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:24 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef