この項目では、グアテマラ、ペテン低地にある古典期マヤ遺跡について説明しています。メキシコ、コアウィラ州の都市については「ピエドラス・ネグラス (コアウイラ)」をご覧ください。
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2017年10月)
玉座1号。「偉大な太陽・亀の歯」の名前のある「支配者7」(位781-808?)によって西のアクロポリスの回廊J-6に奉納された。808-810年前後に反乱、暴動によってピエドラス・ネグラスの王朝が崩壊するときにこの玉座もばらばらに破壊されたと思われる。ピエドラス・ネグラス石碑1号。キニチ・ヨナル・アーク2世の即位後のカトゥンの儀礼についてや、王妃カトゥン・アハウについての記述がある。
ピエドラス・ネグラス (Piedras Negras) は、グアテマラペテン地方西部のウスマシンタ川北岸に位置する古典期マヤ遺跡のひとつ。現在はシエラ・デル・ラカンドン国立公園
の一部となっている。 ピエドラス・ネグラスという名はスペイン語で黒い石を意味する。古代マヤ語でYo'k'ib(ヨキブ)と呼ばれており、「大きな門」もしくは「入り口」を意味し、これは遺跡のすぐ近くにある現在は干上がっている巨大なセノーテに由来すると推測される。また、祭壇4などに見られる未解読文字Paw stone(ポー・ストーン、複合文字であり、未解読であるPaw(ネコ科動物などの爪のついた足)と既に解読されているTuun(石)の組み合わせ)も地名を表しているとされ、この遺跡が創設された当時の地名である可能性が高い。この遺跡は、西グループ、東グループ、南グループに分けられる。西と南のグループはそれぞれ球戯場や広場を備える。アーチ状の屋根を持つ宮殿や神殿ピラミッドが立ち並び、それらの一つは遺跡内に数ある洞窟のうちの一つとつながっている。また、ウスマシンタ川の川岸には、ヨキブ (Yo’ki’b) の紋章文字が彫られた巨石がある。 ピエドラス・ネグラスは、ウスマシンタ川流域で一時は最大の勢力を誇った王国の首都である。ウスマシンタ川の40キロメートル上流にはライバルであったヤシュチランがあり、サン・ペドロ・マルティル川 ピエドラス・ネグラスの名が文献に初めて登場するのは、1892年に出版されたフランス人リュドビク・シャンボンの旅行記においてである。このガスコーニュ人は、近くにあった小さな伐採キャンプの名をとって、この遺跡をピエドラス・ネグラス(黒い石)と名づけた。名前の由来は、建造物に使用された石の色である。 1894年、きこりに案内されたオーストリア人写真家テオベルト・マーラーが遺跡を訪れ、1901年、ハーヴァード大学ピーボディー博物館より彼の写真と報告書を収めた論文集が発行された。1931年より、ペンシルベニア大学博物館アメリカ部門責任者ジョン・オールデン・メイソンの主導の下、ピエドラス・ネグラスの発掘プロジェクトが開始される。1932年、プロジェクトの責任者はリントン・サタースウェイト・ジュニア
王国史
研究史
メイソンとサタースウェイトらによる調査は、一部を除いてなんら結論を出せぬまま終了したが、発掘の過程で得た大量の重要な発見は研究者たちに提供され、カーネギー研究所によるチチェン・イッツアやワシャクトゥンの調査などとともにマヤ地域の考古学の発展に大いに貢献した。