初代コーンウォール伯爵
ピアーズ・ギャヴィストン(ギャヴェストン、英語: Piers Gaveston, 1st Earl of Cornwall、1284年頃 - 1312年6月19日)は、イングランドの廷臣、貴族。エドワード2世の寵臣として権勢をふるったが、諸侯や議会の反発を招き、1312年には諸侯の私刑により殺害された。
経歴エドワード2世とギャヴィストンの親密さを描いた絵画(マーカス・ストーン画)諸侯の私刑で斬首されたギャヴィストンを描いた絵画。
A Chronicle of England,1864年
1284年頃、当時イングランド王の所領だったフランス南西部ガスコーニュに同地の騎士サー・アーノルド・ド・ギャヴィストンの息子として生まれる[1][2]。
1294年に同世代のエドワード皇太子(後のエドワード2世)の遊び相手として伺候して以来、皇太子と極めて親密な関係となった[2]。同性愛の関係だったともいわれる[1]。国王エドワード1世はやがて皇太子のギャヴィストン依存を危惧するようになり、二人を引き離そうと様々な手段を講じるようになったが、皇太子の態度は改まらなかった[2]。エドワード1世は1307年の崩御に際してギャヴィストンの追放を命じるとともに皇太子への遺言としてギャヴィストン追放を解いてはならない旨を言い残している[2]。
しかしエドワード2世はこの遺言を無視した。エドワード2世が即位するとただちにギャヴィストンの追放処分は解かれた。そして王族専用の爵位コーンウォール伯(英語版)位を与えられるとともに王の俸禄配分権(Patronage)を差配するようになった[3][4]。
1308年1月にエドワード2世はフランス王フィリップ4世の娘イザベラと結婚するためイングランドを不在にしたが、この際ギャヴィストンが摂政に任じられている。諸侯は以前からエドワード2世のギャヴィストン寵愛を不快に思っていたが、これをきっかけに反発が一気に高まった[5][4]。
1308年2月25日にエドワード2世の戴冠式が行われたが、この時もギャヴィストンは王冠奉持者を務める厚遇を受けている。ギャヴィストンは自分に敵意を表す諸侯にわざと恥をかかせるようなふるまいをし、さらに王妃イザベルの叔父たちにも無礼を働いた。叔父たちは怒って席を立ってフランスへ帰国してしまったほどだった[6]。
1308年の議会に諸侯は武装して集まり、エドワード2世を威圧してギャヴィストン追放を要求した[7]。