ピアノ四重奏曲第1番_(フォーレ)
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1870年代のガブリエル・フォーレの肖像画

ピアノ四重奏曲第1番(: Quatuor pour piano et cordes no 1) ハ短調 作品15は、近代フランス作曲家ガブリエル・フォーレ(1845年 - 1924年)が1879年に完成したピアノヴァイオリンヴィオラチェロのための室内楽曲。全4楽章からなり[1]、演奏時間は約29分[2]

なお、フォーレのピアノ四重奏曲は2曲あり、第1番の初演から7年後の1887年に第2番が初演されている[3]
作曲の経緯フォーレと家族ぐるみで親交があったポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド

ピアノ四重奏曲第1番は1876年から1879年にかけて作曲されたものの、初演後に改訂されたため、最終的な形になるまでは1883年までかかっている[4][3]

1876年の夏、友人であるクレール夫妻のサント=アドレスの屋敷において、フォーレはヴァイオリンソナタ第1番を完成させ、これと前後して新たな室内楽曲に着手した[1][5]。ピアノ四重奏というそれほど一般的でない形態をフォーレが取り上げたのは、独自のものを作り出したいという思いと、室内楽ジャンルの刷新を目指してのことだったとされる[6]

フォーレとクレール夫妻の間に交わされた手紙から、フォーレがサント=アドレスを発った1876年10月初頭の時点で作曲は順調に捗り、11月15日には完成させてパリに持ち帰れる見通しだったことがわかっている。しかしそのまま2年が経過し、1878年12月、マリー・クレールはフォーレに作品の完成を催促している[1]。ピアノ四重奏曲の初稿が完成したのは、着手から3年後の1879年の夏だった[7][8]

この間、フォーレは1877年1月のヴァイオリンソナタ第1番の初演や出版契約、4月のマドレーヌ寺院のオルガニストから楽長への就任、これに伴う転居などへの対応に追われていた。また、1877年7月に歌手ポーリーヌ・ヴィアルドの娘マリアンヌと婚約したが、10月にはこの婚約は破棄され、このことでフォーレは精神的に大きな打撃を受けた。このころの作品に本作や歌曲『夢のあとに』、ピアノと管弦楽のための『バラード』作品19などがある[9][7][8]

ピアノ四重奏曲第1番は1880年2月14日に初演され、3年前のヴァイオリンソナタ第1番の初演に続く成功を収めた。しかし、終楽章に懸念を表明する友人たちもいた。このことに不安を感じたフォーレは、出版社に第1楽章から第3楽章までを渡し、第4楽章はその後3年かけて新たに書き直した。新たな終楽章による決定稿の完成は1883年である[1][10]。終楽章の初稿はフォーレの手元に置かれ、おそらく彼の死の前に作曲者自身の指示によって処分されたものと見られる[11]
初演・出版初演でヴァイオリンを弾いたオヴィッド・ミュザン(1880年)

1880年2月14日、サル・プレイエルで開かれた国民音楽協会の演奏会で、オヴィッド・ミュザンのヴァイオリン、ルイ・ファン=ヴェフェルジュムのヴィオラ、エルマンノ・マリオッティのチェロ、フォーレ自身のピアノによって初演された[注 1]。この演奏会では、ヴァイオリンとピアノのための『子守歌』作品16も初演されている[1][10]

作品は、ベルギーヴァイオリニストユベール・レオナールに献呈された。レオナールがヴァイオリンソナタ第1番の作曲に協力・助言を与えてくれたことへの感謝のしるしとされる[3]

このころのフォーレの作品は、国民音楽協会の限られた人々の間でしか評価されていなかった。後にフォーレと親交のあったピアニストのロベール・ロルタは、フォーレ自身が語ったピアノ四重奏曲第1番の初演時のエピソードについて、次のように紹介している。「(……)フォーレは多少とも無頓着で無造作に、自分の作品がその頃の売れっ子の演奏家たちによって演奏されることを話してくれました。彼はまたどのようにして演奏会の前日に彼らをリハーサルに集めたかということ、勇気を奮い起こして各楽章の説明をしたということ、そしていくらかのニュアンスをつけて弾いてほしいと頼んだということも話してくれました。そうすると、チェロ奏者が彼の言葉を遮って、『ねえ、キミ、われわれは忙しいんだよ。音は間違いなく弾いているけれど、ニュアンスにまで気を配っている暇はないんだよ』と言ったそうです。」 ? 1929年8月21日付「コンフェランシア」紙へのロベール・ロルタの寄稿[10]

また、書き直された終楽章に基づく決定稿は、初演から4年後の1884年4月5日、同じく国民音楽協会の演奏会で、ルキアン・ルフォール(ヴァイオリン)、ベルニ(ヴィオラ)、ジュール・ロエブ(チェロ)、フォーレ(ピアノ)によって演奏された[10][12]

この曲の出版に当たっては、ヴァイオリンソナタ第1番と同様の困難が待ち受けていた。フォーレの歌曲を出版していたシューダンス社の編集者はフォーレに対して侮辱的な態度で拒み、デュラン社にも楽譜を持ち込んだが断わられた。契約に応じたのはアメル社だったが、ヴァイオリンソナタ第1番のときのブライトコップ・ウント・ヘルテル社と同様に、フォーレはこの作品に関する権利をすべて放棄しなければならなかった[1]。とはいえ、アメル社はこのときピアノ四重奏曲第1番に加えてヴァイオリンとピアノのための『子守歌』(作品16)[注 2]、シューダンス社が出版していた作品18の3つの歌曲(「ネル」、「旅人」、「秋」)の版権も買い取り、1879年11月16日の契約以降、1905年までフォーレのほぼ全作品を出版してゆくことになる[13][6]


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