ピアノ五重奏曲第2番 (仏: Quintette pour piano et cordes no 2) ハ短調 作品115は、近代フランスの作曲家ガブリエル・フォーレ(1845年 - 1924年)が1921年に完成し、同年初演されたピアノと弦楽四重奏(ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ)のための室内楽曲。全4楽章からなり、演奏時間は約31分[1]。
フォーレのピアノ五重奏曲は2曲あり、第2番の初演は第1番の初演(1906年)から15年後のことである[2]。
作曲の経緯アヌシー=ル=ヴューの風景
1919年夏に着手し、2年後の1921年2月ごろに完成[3]。第2楽章、第3楽章、第1楽章、第4楽章の順に作曲された[4]。
1919年の夏、フォーレはオート=サヴォワ県の村アヌシー=ル=ヴューに初めて逗留した[5]。この地で歌曲集『幻影』(作品113)を完成させたフォーレは、引き続いてピアノ五重奏曲第2番に着手した[6]。フォーレは妻マリーに宛てた手紙にこの曲の着手について報告しており、「下書きの状態なので、まだ誰にも話していません。」と打ち明けている[5]。
フランスのフォーレ研究家ジャン=ミシェル・ネクトゥーによれば、この作品は長い間フォーレの頭の中で構想が練られていたもので、その雄大な作風と第1番で経験したようなこのジャンルに特有の釣り合いの問題から、長期間の推敲を重ねなければならなかった[5]。しかし、1905年からパリ音楽院の院長職にあったフォーレは、その職務のために作曲の中断を余儀なくされた[5]。
1919年9月26日に、フォーレの院長職が1年間延長とされたが、これはフォーレの74歳という高齢に加えて、すでに一般にも知られるところとなっていた聴覚障害の深刻化を含む体力の衰えを理由に出された、事実上の「退職勧告」だった。とはいえ、これによってフォーレは公務から解放されて自由を享受できるようになった。この年7月17日付の妻宛の手紙に、フォーレは次のように述べている。
「作曲に専念できることを思えば、職務の重荷を取り除いてくれたこの運命には感謝しなければなりません。これまで学校の仕事のことについてあなたに愚痴をこぼしたことはありませんでしたが、ここは面倒なことで一杯です。デュボワは10年で投げ出しましたが、私は14年も持ちこたえました。自分ながらよく勤まったと思います。」 ? 1919年7月17日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙[7]ヴェリエ=デュ=ラックの風景
また、日本の作曲家矢代秋雄によれば、フォーレの聴覚障害は極度の難聴に加えて、わずかに聞こえるその音が狂っており、高い音や低い音が2度や3度の差をもって聞こえたとしており、「それはベートーヴェンの場合よりもさらに悲劇的だったかもしれない。」としている。このころ、フォーレはトゥールにおいて最後のピアノの公開演奏をしているが、その際は一切を耳で聞かないようにして、目で鍵盤を追いながら練習したという[1]。1921年5月のこの曲の初演時には、もはやフォーレはピアノの前に座らなかった[8]。
1919年12月から翌1920年の4月にかけてフォーレはモンテカルロとニースに滞在して作曲をすすめるが、モンテカルロではインフルエンザにかかり、回復するのに数週間を要している[6][9]。1920年4月26日にフォーレはパリ音楽院の名誉院長に任命され、レジオンドヌール勲章(勲二等)を授与された[7]。
1920年の夏には、アヌシー湖畔にあるヴェリエ=デュ=ラックで友人マイヨ夫妻が借りてくれたフェジニー城で夫妻や息子たちと過ごした。8月23日付の妻マリー宛の手紙で、この時点で第2楽章と第3楽章の作曲が完了し、第1楽章が半ばまでできあがっていたことが分かっている[6][5]。