ピアノ三重奏曲_(フォーレ)
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ガブリエル・フォーレ(1905年の写真)

ピアノ三重奏曲(: Trio pour piano, violon et violoncelle) ニ短調作品120は、近代フランス作曲家ガブリエル・フォーレ(1845年 - 1924年)が作曲したピアノヴァイオリンチェロのための室内楽曲。全3楽章からなり、演奏時間は約20分[1]
作曲の経過

フォーレのピアノ三重奏曲は1922年9月から1923年2月にかけて作曲された[2][1]
創作力の減退

1922年1月、ニース滞在中のフォーレにピアノ三重奏曲の作曲を提案したのは、彼が出版契約を結んでいたデュラン社の社主ジャック・デュランだった[注 1]。デュランは、モーリス・ラヴェル第一次世界大戦前夜に作曲したピアノ三重奏曲(1914年)のような音楽を書いてみてはどうかと勧めた[3][4][5]

フランスのフォーレ研究家ジャン=ミシェル・ネクトゥーによれば、この年の1月から8月にかけて、フォーレの創作力は完全に失われていた。1月20日付け妻マリーに宛てたフォーレの手紙には、「今の状態が長く続かないことを願っています。なぜなら、私は猛烈に仕事がしたいのです。」と書き[6]、2月2日付けの手紙では、「老いよ、消え失せろ!」と自らを叱咤している[7]。しかし、3月4日付けの手紙では「恥ずかしい話ですが、私は毎日をわらじ虫のように家の中に閉じこもって過ごしています。まったく何もしていません。ニースに来てから、書くに値するような音符はまだ二つと見つけていないのです。私の才能は涸れてしまったのでしょうか……。」と悩みを打ち明けている[8]友人の作曲家ポール・デュカスに宛てた同年4月21日付けの手紙では、フォーレはワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』から一節を引用しつつ、ユーモアと自嘲を交えながら、「私はこの4ヶ月間で、ワーグナーのグルペット[注 2]に負けないくらい歳を取りました。」と述べている[8]

また、悩まされてきた聴覚障害に視力の衰えや歯のトラブルも加わり、フォーレは次第に孤立していった。次男のフィリップ・フォーレ=フレミエは、このころのフォーレについて次のように述べている。

「相手をどれだけ思いやり、尊敬していようとも、父には、周りの調子に合わせて普通の会話をするのは不可能であった。食卓で、周りの人たちの関心が直接自分に注がれなくなると、たちまち父は不安そうな様子を見せた。そして目を凝らして、人々の顔の表情からその心を読み取ろうと努めた。父はこうした努力に疲れ果てたが、かといって、自分の存在を人に押し付けるようなことは好まなかった。何も言わずに、人々の関心が自分のところに戻ってくるのを待っていたのである。」 ? フィリップ・フォーレ=フレミエ[8]
着手から完成までアヌシー=ル=ヴューの風景

フォーレがようやく新曲のスケッチに取りかかったのは4月にパリに戻って以降で、1922年の5月から6月にかけてと見られる[6][3]

1922年7月からほぼ一月の間、生まれ故郷パミエに近いアルジュレスに滞在したものの、気管支肺炎にかかったフォーレはこの地ではほとんど仕事ができなかった。このときフォーレは次男フィリップにパリの家の机の上に忘れてきた原稿を探すように頼んでおり、それがピアノ三重奏曲の第2楽章の中間部のスケッチだった[3][4]

8月9日からアヌシー=ル=ヴューに移り、約2ヶ月デュナン館で過ごす。アヌシー=ル=ヴューは1919年以来2度目の滞在だった。8月26日にこの地でフォーレ・フェスティバルが開かれ、翌27日、教会でフォーレの『小ミサ曲』が演奏されるなどの歓迎を受けた。フォーレの創作力はここで回復し、妻マリーに宛てて次のように報告している[3][4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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