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ビーバー戦争当時の北東部一帯の主なインディアン部族勢力図
ビーバー戦争(ビーバーせんそう、英語: Beaver Wars)、またはフランス・イロコイ族戦争(French and Iroquois Wars)、イロコイ族戦争(Iroquois Wars)は、17世紀半ばに北アメリカ東部で戦われた、インディアン部族とフランス植民地軍との一連の「インディアン戦争」の総称である。 17世紀、東部から北東部へ北上しつつあった農耕軍事インディアン国家のイロコイ連邦は、勢力を拡張し、またフランス人交易者達と西部の五大湖地域の部族との間の、毛皮などの貿易を独占しようとしていた。毛皮の中でも特にビーバーの毛皮が珍重され、紛争の種になったので、この戦争の名前に付けられた。この紛争によってイロコイ連邦内での部族同士の勢力争いに火が着き、五大湖地方の大多数のアルゴンキン語族系部族をモホーク族が支配することになった。 この戦争は極度に残虐な性格があり、合衆国でのインディアン戦争の歴史の中でも最も血塗られた戦闘の連続となった。結果としてのイロコイ族の領土拡大は、ワイアンドット族(ヒューロン族)、ニュートラル族
概要
アルゴンキン語族系のインディアン部族とイロコイ族の社会はこの戦争で大きな影響を受けた。戦争の結果、ニューネーデルラント植民地のオランダ人とイロコイ族の同盟が消失し、この植民地へのイギリスの進出への対抗手段としてフランスがイロコイ族との同盟を求めるようになった。最終的にはイロコイ族がイギリスとの交易を行うようになり、後の大英帝国による植民拡張で重要な役目を果たすようになった。 1540年代に、フランス人のジャック・カルティエがセントローレンス川渓谷を探検した。カルティエの記録では、セントローレンス・イロコイ族(スタダコナンあるいはローレンシアンとも)と遭遇し、スタダコナとオシュラガを含む砦化された集落を幾つか占領した。この「スタダコナン族」は、前年にこの集落を襲撃し、200人を殺した「トウダマン族」として知られる他の部族と戦争をしているところだった。欧州での戦争や政策によって、セントローレンス川渓谷のフランスによる植民地化は17世紀初めまで進まなかった。フランス人はこの地に戻ってきて、スタダコナとオシュラガの場所が放棄され、見知らぬ敵によって完璧に破壊されていることに驚かされた。 スタダコナとオシュラガの破壊について、イロコイ連邦の加担を上げる歴史家もいるが、それを支持する証拠はほとんど無い。イエズス会の報告書「イエズス会の関係」に載っているイロコイの口伝によると、モホーク・イロコイ族とサスケハノック族およびアルゴンキン語族の同盟との間に1580年から1600年まで死闘が続いたとある。ちなみに「アルゴンキン語族」というのは語族であってインディアンの部族名や民族名ではない。 フランス人が1601年にこの地域を再び訪れたとき、セントローレンス川渓谷では既に血で血を洗う長い戦いの中にあった。事実、サミュエル・ド・シャンプランがセントローレンス川岸のタドゥサックに上陸したとき、彼とそのフランス人冒険家の小さな集団は即座に、モンターネ族、アルゴンキン語族およびヒューロン族によって戦士に仲間入りさせられ、彼らの敵への攻撃を手伝わされた。 イロコイ族とフランスの関係は、17世紀初頭はあまり協調的なものでなかった。1609年、シャンプランがアルゴンキン族の部隊に加わり、シャンプレーン湖岸でイロコイ族と戦ったのが最初であった。シャンプラン自身は火縄銃でイロコイ族の戦士3人を殺した。1610年、シャンプランと火縄銃で武装した部隊がアルゴンキン語族とヒューロン族を助け、イロコイ族の大部隊を破った。1615年、シャンプランはヒューロン族の襲撃隊に加わり、イロコイ族の集落、おそらくオノンダーガ族の集落の包囲戦に参加した。包囲戦は結局失敗し、シャンプランは負傷した。 しかし、1630年代までにイロコイ族はオランダ人との交易で得た白人の武器で武装するようになり、火縄銃の扱いに慣れてくると、アルゴンキン語族、ヒューロン族および他の宿敵部族との戦争に活用するようになった。一方フランス人は同盟部族に対する火器の交易を禁ずる処置に出たが、キリスト教に改宗した個人に対する贈り物として火縄銃が偶に贈られることがあった。イロコイ族の初めの攻撃目標は宿敵部族であるアルゴンキン語族である、マヒカン族、モンターネ族
発端
17世紀半ばにイロコイ族の勢力内で、ビーバーが極端に少なくなったことで戦争が加速されたと指摘する歴史家もいる。戦争が行われていた頃、イロコイ族は現在のニューヨーク州でオンタリオ湖の南、ハドソン川の西に住んでいた。イロコイ族の土地は多数の部族の間の飛び地となっており、西側はオハイオ郡のショーニー族などアルゴンキン語族、北側はセントローレンス川沿いのイロコイ語を話すがイロコイ連邦には入っていないヒューロン族などに取り囲まれていた。
1620年代にオランダ人がハドソン渓谷に交易拠点を設けたことで、イロコイ族、特にモホーク・イロコイ族は武器や他のヨーロッパ製品を購入するために交易に頼るようになった。しかし銃の導入によって、ビーバーの個体数の減少に拍車がかかり、1640年までにハドソン渓谷からほとんど消えてしまった。このために交易の中心はより北の寒いセントローレンス川沿いの地域に移った。その地域はヌーベルフランスのフランス人と密接な交易を続けていたヒューロン族の勢力圏だった。イロコイ族は自らを、その地域で最も文明化されており、進んだ民族だと考えていたが、毛皮交易については他の民族に負けていることが分かった。疫病で人口が減少することを恐れたイロコイ族は、勢力拡大に走り始めた。 1640年代初期、イロコイ族がフランスと交易しているワイアンドット族を混乱させようとしてセントローレンス川沿いの集落を襲った。1649年、イロコイ族はワイアンドット族領地の中心部に破壊的な攻撃を掛け、幾つかの重要な集落と数百名の住民を殺した。殺された中にはイエズス会宣教師のジャン・ブレビュフ、シャルル・ガルニエおよびガブリエル・ラルマンが含まれていた。彼らは白人の間ではローマ・カトリック教会の殉教者と見なされた。この攻撃に続いて、残っていたワイアンドット族は五大湖地方のアニシナベ連邦(オジブワ族)の援助を求めて散り散りになった。同地ではオダワ族系のオッタワ族が残って、後にフランスとの毛皮交易を引き継ぐことになった。 1650年代早く、イロコイ族はフランス人入植者への攻撃を始めた。イロコイ連邦の中にはオナイダ族
イロコイ族のヌーベルフランス攻撃
このような襲撃は常にあるというものではなかったが、インディアンの土地に入植地を開いたヌーベルフランスの住人を恐れさせ、また彼らは無力だった。このような攻撃に反撃したのが、フランス系カナダ人にとっての何人かの英雄であり、たとえばドラール・デ・オルモーはセントローレンス川とオタワ川の合流点にあるロング・ソールトでのイロコイ族の攻撃に抵抗し、1660年5月に死んだ。オルモーはその犠牲によって入植地モントリオールを救うことに成功した。白人の間の他の英雄には、1692年に14歳で、イロコイ族の攻撃に対する家族の防衛を率いたマドレーヌ・ド・ヴェルシェールがいた。 イロコイ族は北部へ攻撃を掛けるのと同じ頃に、西の五大湖地方への拡大も始めた。1650年代までにイロコイ族はバージニア植民地からセントローレンス川まで拡がる広大な領域を支配した。西部については、広い範囲で制圧行動を取った。セネカ族が先導したイロコイの戦士団はオンタリオ南部に住んでいたニュートラル族連邦をまず破壊した。ニュートラル連邦は数の上では引けをとらなかったが、ヨーロッパ製の銃がなかった。次には、エリー湖岸を領土としていたエリー族
イロコイ族の西部侵入
イロコイ族の拡大とオジブワ族(アニシナーベク連邦)との戦争の結果、スー族など北東部の民族はミシシッピ川を越えてグレートプレーンズまで押し出され、農耕を棄て狩猟民となった。