ビートルズの解散問題
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ビートルズの解散問題(ビートルズのかいさんもんだい)は、イギリスロックバンドビートルズの解散にかかわる諸問題のことである。ここでは、解散にいたる経緯とその原因、及びそれらにまつわる背景について解説する。
解散にいたる経緯
突然吹き出した「ビートルズ解散説」

最初に「解散」が話題になった契機は、1966年11月7日にデイリー・メール紙がビートルズのマネージャーであったブライアン・エプスタインが語った「グループとしての今後の予定は決まっておらず、近く将来について話し合うことになっている」という談話を報道したことだった[1]。1966年8月29日にアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで最後の公演を終えた後、ジョン・レノンは主演映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』の撮影のため西ドイツへ、ポール・マッカートニーは変装をしてロンドンを散歩したりフランス旅行を、ジョージ・ハリスンラヴィ・シャンカルシタールを習うためインドへ、リンゴ・スターは家族とヨーロッパ旅行に行くなど、ビートルズは2か月余りグループとしての活動を休止していた。実際は12月から始まる『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の制作前に予定されていた長期休暇であったが、EMIとの再契約や公演活動を終了した後の活動方針など、話し合いが必要だったことは事実であった。

この時はエプスタインが解散を否定することで騒ぎは収まったが、1967年1月22日、サンデー・タイムズ紙が「我々は自分たちの好きな道を進む準備ができた。将来4人が一緒に演奏するのは、お互いが懐かしくなった時である」というマッカートニーのインタビュー記事を掲載したことで解散疑惑は再燃してしまう[2]。当時はまだ明らかにされていなかった公演活動をやめたことで、ソロも含め、様々な活動ができる可能性を語ったものであって、解散を示唆したものではなかった。この騒ぎも2月にEMIとの再契約をはじめ、ストロベリー・フィールズ・フォーエバーやアルバムの発売予定が明らかになると収束した。しかし、8月にエプスタインが急死すると、次第にメンバー間の不協和音が表面化し始めた。
リンゴ・スターの一時離脱

1968年8月22日、スターは「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」のリハーサル・セッション中に突然スタジオを飛び出した[3]

アルバム『ザ・ビートルズ』のレコーディング・セッション中、レノンがオノ・ヨーコをスタジオに連れてきたことを発端にメンバー間の確執が生じていた[4]。一方、アルバム制作途中から最新の8トラック・レコーダーが導入された[3]ことにより、4人が同時に演奏する必要が無くなり、メンバーが別々のスタジオで作業することも多くなっていた。当時のスターは、他のメンバーの作業の都合に自分の予定を合わせるなど、いわばセッション・ミュージシャンのような立場に置かれていた。またグループへの加入が一番遅く、しかも作曲面での貢献も乏しい自分のグループにおける役割の重要度が他のメンバーに比べて低いのではないかと感じていた。また、マッカートニーが自作曲のために自らドラムを演奏するところを目撃し、その思いをさらに強めた。そんな中、久しぶりに4人そろったこの曲のセッションで、スターの演奏に満足しないマッカートニーが度々注文をつけたうえに実演して見せたことで、温厚なスターも激怒し、脱退を宣言した[5][6][7]

スターのこの行動に3人は動揺し、レノンは励ましの電報を、マッカートニーはスターのドラムを褒め称えるメッセージを送り、復帰するよう説得した。イタリアサルデーニャ島への家族旅行で静養後、9月3日にスタジオに戻ったスターは、ハリスンがスタジオ中に飾りつけた花によって迎えられた[8][9]
ジョージ・ハリスンの一時離脱

1969年1月10日、いわゆる「ゲット・バック・セッション[注釈 1]の最中、今度はハリスンが脱退を宣言してスタジオを出ていってしまった[10]

稀代のメロディ・メーカーと称される「レノン=マッカートニー」擁するビートルズにおいて、一番年下のハリスンの曲が採用されたのは、5thアルバム『ヘルプ!』で初めて2曲収録されるまで、2ndアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』収録の「ドント・バザー・ミー」1曲のみだった[注釈 2]。寡黙な性格などからメンバーの中では一番目立たず、「静かなビートル」(Quiet Beatle)と呼ばれ、レノン=マッカートニーの陰に隠れて実力を十分に発揮出来ていなかったハリスンだったが、映画『ヘルプ!4人はアイドル』の撮影時に出会ったインド音楽に興味を持ったことで、シタールをはじめとする新しい楽器を導入するなど独自の世界観を構築することに成功し、その作曲能力はレノン=マッカートニーに匹敵するまでになっていた[11]

一方、レノンとマッカートニーは、ハリスンの曲のアルバムへの収録は2曲までにとどめ[注釈 3]、自由な作品発表の場を与えずにいた[注釈 4]。また、ビートルズが公演活動を止めたことにも強い不満を持っており、スタジオ・ワークを重視していたハリスンとの間に溝ができていた。さらにマッカートニーは自作曲の録音中に、イメージを具現化することを重視するあまり、ハリスンの能力を軽視しているとも捉えられるくらい、演奏に何回も注文をつけたこともあった[13][注釈 5]

1月2日からトゥイッケナム映画撮影所[注釈 6]で始まった「ゲット・バック・セッション」は、元々マッカートニーの発案で行われた。スターの一時離脱でバンドの将来を危惧する一方で、「ヘイ・ジュード」のプロモーション・フィルム撮影の際、観客の前で行った演奏に手応えを感じていたマッカートニーは、1966年8月以来行っていないライブ・パフォーマンスを行うことでバンドとしての一体感が高めるとともに、より簡潔なロックンロールの構成に戻ることでバンドの活性化を企図した[15][16]。そこで、公演で演奏することを前提とした、複雑な編集作業を伴わない新曲によるリハーサル・セッションを同スタジオで行うと同時に、新曲を仕上げていく過程の撮影を行い、公開コンサートを含むテレビ特番用のドキュメンタリー映像として使用することで合意していた[17]。しかし、セッションが進むにつれて、慣れない映画スタジオでの作業、本番まで時間が短いこと、メンバー以外の人間がいる中で常に撮影されていることなど、緊張と不満が原因となり軋轢が生まれていった[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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