ビートたけしのオールナイトニッポン
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「たけしのオールナイトニッポン」はこの項目へ転送されています。

寺内たけしがパーソナリティーを務めていた番組については「寺内たけしのオールナイトニッポン」をご覧ください。

.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}オールナイトニッポン > ビートたけしのオールナイトニッポン

ビートたけしのオールナイトニッポン
ジャンルラジオバラエティ
放送方式生放送
放送期間1981年1月1日?1990年12月27日
放送時間120分(25:00?27:00)
放送局ニッポン放送
ネットワークNRN
パーソナリティビートたけし
出演高田文夫
たけし軍団
片岡鶴太郎
たけし軍団セピア
浅草キッドブラザーズ
プロデューサー近衛正通
ディレクター森谷和郎、鳥谷規
安岡喜郎土屋夏彦
特記事項:
1986年12月?1987年7月の半年間は、ビートたけしが芸能活動を謹慎していたため休止。
テンプレートを表示

『ビートたけしのオールナイトニッポン』は、ニッポン放送の人気深夜放送オールナイトニッポン』のうち、木曜日ビートたけしパーソナリティを担当した番組。1981年1月1日から1990年12月27日、深夜1:00?3:00に、基本的に生放送されていた。
概要

ビートたけしの絶頂期に放送されていたラジオ番組で、ビートたけしがツービートを離れ単独で担当した初のメイン番組にして、漫才ブームからフライデー襲撃事件を経て映画監督となるまで、一貫して担当していた唯一の番組でもある。

オープニングトークと曲の後は前半がフリートーク、後半に各コーナーというのが通常のパターン。「毒ガス標語」に代表される時事ネタや社会事象への風刺、や自身のプライベート、仕事の話をメインに据えた巧みなトークに加え、時に各種のツアーやロケ、更にはスタジオにおいて運動やテレビゲームなど視覚を主体とした企画を実行する斬新さにより、当時の若者の人気を獲得したのみならず、演芸・芸能に携わる業界人にも多大な影響を与えた番組で、「伝説のオールナイトニッポン」と称される事もある。
開始までの経緯

たけしが「漫才ブーム以後」のステップを模索していた所に、当時オールナイトニッポンのプロデューサーを務めていた近衛正通から引き合いが来て実現したもの。

近衛によれば、そもそもは、『ダディ竹千代のオールナイトニッポン』に、1980年8月頃にツービートが「世の中、これはどうなっているんだ」というコーナーに、ゲストとして登場させたことから始まる[1]。ツービートの2人はプロデューサーの近衛の予想通りに喋ってくれたが、放送後、ツービートの所属事務所の太田プロダクションに電話をしたら、その副社長が電話に出てしまい、ギャラ(出演料)の事でもみ合ってしまったため、事務所に直接向かった[2]。そこで、プロデューサーの近衛と副社長の話し合いが持たれ、近衛が副社長に対して、「ラジオの予算が低い」という趣旨の話をしたら、その副社長は「そちらの五並びでいいわよ」と了承した[3]。しかし、副社長は、さらに、近衛に対して、「オールナイトの枠は空いてないの?」と問うと、近衛が「ないですね」と返答した[3]。副社長によれば、「実はTBSからツービートのラジオをやらないかってオファーがあるのよ。だけどさ、同じ局の『パックインミュージック』に星セント・ルイスが出てるし、文化放送じゃ、ザ・ぼんちが『セイ!ヤング』をやってるの。出来たらツービートはニッポン放送でやらせたくてさ」と言ってきた[4]。しかし、近衛は当時の漫才ブームというのは、ピンと来ていなかったという[5]。そこへ、副社長が「ウチの娘が中島みゆきのファンでね、おたくのオールナイトを聴いているのよ。私の考えを言うと、娘が『ツービートは絶対ニッポン放送よ!』というわけ」といった[5]。近衛によれば、この言葉は「殺され文句」だったといい、「ひとまず持ち帰ります」と言って事務所を後にした[5]

1980年の秋に『ダディ竹千代のオールナイトニッポン』の番組続行ができなくなったと判断し、木曜深夜の第1部が空くことになった[5]。そこで、副社長に対して、近衛が「来年一月からなら、どうにか出来そうです」と伝えたところ、これまた、ギャラ(出演料)の事でもみ合ったが、ツービートの2人の内、「一人で喋るのはどうですか」と提案し、「それは面白いかもしれないわね」と述べた[6]。しかし、ニッポン放送の場合、予算の管理は編成管理部が行っていたため、その部長がギャラ(出演料)に関しては厳しかったため、話し合いが持たれ、妥協点が見つかった為、副社長も納得したという[7]。後に、近衛は、「たけしさんのオールナイト誕生の、最大の功労者は二人分の予算を出さなかった」編成管理部の部長だったと振り返っている[8]

そして、放送作家の高田文夫が、たけしに対して「深夜ラジオやらない?」というお誘いがあったが、これに対してたけしは「『タケちゃんがしゃべりだして、オレ(高田文夫)が一緒にしゃべれば絶対にイケる』みたいなことを、あの人(高田文夫)はなんか確信を持ってたみたいで。『なんだよ、そんなの、どうせ(ギャラ)安いんだろ』って、『漫才(ブーム)も終わりだから、ちょっと暇だししゃべるか』とかなんとか言ってね」ということを明かした[9]。また、なぜラジオに取り組もうとしたかについては、「オレはわりかし新しいネタを作ってるつもりでいたんだけど。ほかの漫才師たちは売れたことで楽しみだしちゃって。お金もいっぱいあるし。だから、ああ、これはもう終わりだな、と思って…」とこのままでは漫才ブームが終わるのではないかと危惧を持ったという[9]

当初は穴埋め的に始まった番組だったが、いざ始まってみれば、聴取率記録を打ち立てるなど若者を中心に人気が爆発し、丸10年のロングランになった。この時間帯の裏番組『パックインミュージック』(オールナイト側で言う「木曜1部」=「金曜未明」)は『金曜ナチチャコパック』が放送されていた[10]。この『ナチ・チャコパック』が長期に渡り人気を博する一方、オールナイトニッポンは南こうせつ(南こうせつのオールナイトニッポン、1975年4月?1976年12月と1978年4月?1979年3月に担当)や桑田佳祐桑田佳祐のオールナイトニッポン、1979年4月?1980年6月に担当[11])を起用したが、それでも、聴取率の面で『ナチ・チャコパック』を上回る事ができなかった[10]。しかし、この『ビートたけしのオールナイトニッポン』が始まったことによって、『ナチ・チャコパック』に対し、聴取率の面で追い越して、前述したように聴取率記録を打ち立てたため、1981年の年末にTBSラジオが『ナチ・チャコパック』のみならず、パックインミュージック全体の終了を決断させた[10][12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:163 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef