ビーチング・アックス
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ビーチング・アックス(英語: Beeching Axe、ビーチングの)は、1960年代にイギリス国鉄の収支改善を目的としたイギリス政府の取り組みに対する非公式の名称である。ビーチングという名は当時のイギリス国鉄総裁で報告書「イギリス国鉄の再建」 (The Reshaping of British Railways) の主著者であったリチャード・ビーチング(英語版)に由来している。この報告書では貨物輸送の新形態や幹線旅客輸送の近代化も提案されているが、輸送量の少ない不採算路線の機械的な廃止と、残る存続路線においても各駅停車と小駅の廃止を提言したことで知られる。

この報告書は、道路輸送の拡大で1950年代から鉄道輸送に大きな損失が発生し始めたことへの対策であった。1955年の鉄道近代化計画の実施後も根本的には改善せず、イギリス国鉄を悩ませ続けていた[1]。ビーチングは、大胆な措置が将来の損失拡大から鉄道を救う唯一の方策であると提案していた。

しかし、政府は報告書のうち投資よりも費用削減に多くの興味を示した。報告後10年間に4,000 マイル(6,400 キロメートル)を超える路線と3,000を超える駅が廃止され、鉄道網の路線長の25%と駅の50%が削減された。今日に至るまで、イギリスにおける鉄道ファンの団体や年配者、特に廃線に影響された地方の人々には、ビーチングの名は鉄道の大規模廃止や各駅停車の減便の代名詞となっている。
廃線の背景

ビーチング博士は鉄道の廃止とよく関連付けられているが、1960年代以前の時点に既に数多くの路線が廃止されていた。

19世紀の鉄道狂時代を中心に急成長したイギリスの鉄道網は、第一次世界大戦直前の1913年の時点で最長の23,440 マイル(37,504 キロメートル)到達した[2]。大戦後はバス自動車航空機など他の交通手段との競争に直面し始め、高頻度運転のバスや路面電車との競争に敗れた郊外の短距離路線が1920年代から1930年代にかけて小規模に廃止された。例としては1934年に旅客輸送を廃止したバーミンガムハーボーン鉄道がある。1923年の鉄道会社4大グループ再編後は、競合複数社の並行する重複路線を中心に廃止され、1923年から1939年までの間に大部分にあたる合計1,264 マイル(2,022km)の路線で旅客輸送を廃止した[2]

第二次世界大戦の勃発で鉄道は戦争の遂行に不可欠となり、輸送量は増加し小康状態を得た。戦争中に保守や新規の投資が抑制されたため、鉄道はかなり疲弊した状態にあった。イギリスの鉄道網は1948年に国有化された。

1950年代初期には鉄道の廃止が再開された。イギリス運輸委員会(英語版)は1949年に、利用の少ない支線を廃止する権限を持った「支線委員会」 (Branch Lines Committee) を設置した。利用の少ない複数の小規模路線はこの時期に廃止された。しかしながら、1959年に廃止されたイースト・アングリアのミッドランド・アンド・グレート・ノーザン・ジョイント鉄道(英語版)のように国土を横断する亜幹線の中にも廃止例があった。1948年から1962年までの間に合計3,318 マイル(5,309 キロメートル)の鉄道が廃止された[2]

この時期には、鉄道開発協会 (Railway Development Association) が主導する廃止反対運動が起こり始めた。著名な参加者としては詩人のジョン・ベチェマン(英語版)がいる[3]
ビーチング報告書

1950年代初期、経済回復と燃料の配給制度の終了で、自動車が一般にも普及しトラックによる貨物輸送の拡大から、戦前と同様に、再び鉄道との競合が再開された。鉄道はこの状況に適応しようと苦闘した。周辺国に遅れを取ったイギリスの鉄道はこれを取り戻すべく、イギリス運輸委員会は1955年に近代化計画を発表し、蒸気機関車からディーゼル機関車電気機関車への置き換えを提案した。この計画では12億4000万ポンド以上を投じて、旅客貨物の鉄道輸送の復権と、1962年までの黒字回復を見込んでいた[4]。近代化計画の多くは承認された。

鉄道の輸送量は1950年代にはほぼ安定していたが[5]、人件費の大幅増加も相まって収支は着実に悪化していった[3][5]。旅客・貨物運賃は、インフレを抑制し、また有権者の歓心を買うために、政府により繰り返し値上げが凍結された[3]

結果として1955年までに収入は運営費をもはやカバーできなくなり、状況は着実に悪化していった。近代化資金は借入に頼り多くが浪費され、1960年代初期には鉄道は財務危機に陥った。営業損失は1960年には6800万ポンド、1961年には8700万ポンド、1962年には1億400万ポンドに達し、これは2005年の価値に換算すると10億ポンドに相当する[6]。イギリス運輸委員会はもはや借入金に対する利子の支払いも不能になり、財務問題の悪化に拍車をかけた。政府は耐え切れなくなって根本的な解決策を模索し始めた。

1960年代初期の時代の雰囲気に同調して、保守党ハロルド・マクミラン政権の運輸大臣は、道路建設会社の社長であるアーネスト・マープルズ (Ernest Marples) であった。在任中は利益相反を回避するために彼の所有する株の3分の2は妻に譲渡されていた[7][8]。マープルズは、交通の未来は道路にあり、鉄道はヴィクトリア朝の遺物であると考えていた。

議長のイヴァン・スティードフォード (Ivan Stedeford) にちなむスティードフォード委員会という名称で知られる諮問委員会が、イギリスの交通の状況について報告し助言を行うために設立された。この委員会には、当時インペリアル・ケミカル・インダストリーズの技術担当重役であったリチャード・ビーチングも参加していた。ビーチングは後の1963年に新設されたイギリス国鉄委員会(英語版)の議長に指名された。スティードフォードとビーチングは、ビーチングの鉄道網を切り詰めるという提案について対立した。議会での質疑に関わらず、スティードフォードの報告は出版されず、ビーチング計画として知られることになる鉄道網の将来に関する提案が政府に採用され、鉄道網の3分の1を廃止し100万両に及ぶ貨車の3分の1を廃車することになった。

ビーチングは鉄道に公共性よりも営利性を求め、不採算の赤字地方路線の廃線で残る黒字路線による収支改善を見込んでいた。
ビーチング第1段階「イギリス国鉄の再建」の報告書と、全国鉄道員組合の反論書

当時のイギリス国鉄議長のビーチングは、全鉄道路線の交通流動に関する検討を開始した。この検討は復活祭の2週間後、1962年4月23日の週に行われ、鉄道網の総合計距離の3割は全旅客・貨物の1パーセントしか輸送しておらず、また全体の半分の駅は収入の2%しか生み出していないと結論づけた[3]

1963年3月27日の報告書「イギリス国鉄の再建」(The Reshaping of British Railways)[9] またはビーチング第1報告は、イギリスの18,000 マイル(29,000 キロメートル)に及ぶ鉄道のうち、主に地方の支線や国土横断線について6,000 マイル(9,700 キロメートル)の廃止を提案した。さらに、他の多くの鉄道路線も貨物専用とされ、存続する路線でも多くの利用の少ない駅については閉鎖されるべきとした。この報告は政府に受け入れられた。

当時、この議論を呼ぶ報告をマスメディアはビーチングの爆弾 (Beeching Bombshell) やビーチングの斧 (Beeching Axe) と称した。鉄道の廃止で公共交通機関を失う地方部などの地域からは抗議が寄せられた。政府は、輸送はバスでより安く代替可能で、廃止された鉄道の代わりにバスを運行すると約束した。

報告書の重要な部分として、イギリスの鉄道は主要幹線を電化すべきで、また時代遅れで不経済な車扱貨物輸送の代わりにコンテナ輸送の採用を提案していた。この中には、フレートライナーの開設やウェスト・コースト本線のクルー (Crewe) からグラスゴーまでの1974年の電化延伸のように、結果的に採用されたものもあった。さらに職員の勤務条件は次第に改善された。
年ごとの廃止路線かつてのグレート・セントラル鉄道 (Great Central Railway) のラグビー・セントラル駅 (Rugby Central railway station) の跡、ビーチング・アックスにより廃止された多くの駅や路線の1つ

イギリス国鉄には1950年の時点で総延長約21,000 マイル(33,800 キロメートル)と約6,000駅があったが、1975年には延長12,000 マイル(19,300 キロメートル)と2,000駅にまで縮小した。それ以降はおおむね同じ規模を保っている。

不採算路線の廃止は、20世紀を通じて進められた。1950年代にはイギリス国鉄の支線委員会が大きな反対の見込まれない重複路線を廃止し、国有化からビーチング報告の発表までの間に、およそ3,000 マイル(4,800 キロメートル)の路線が既に廃止されていた[10]。しかし、報告の発表後、廃止は顕著に加速した。

年廃止路線長
1950年150マイル (240 km)
1951年275マイル (443 km)
1952年300マイル (480 km)
1953年275マイル (443 km)
1954年から1957年500マイル (800 km)
1958年150マイル (240 km)
1959年350マイル (560 km)
1960年175マイル (282 km)
1961年150マイル (240 km)
1962年780マイル (1,260 km)
ビーチング報告発表
1963年324マイル (521 km)
1964年1,058マイル (1,703 km)
1965年600マイル (970 km)
1966年750マイル (1,210 km)
1967年300マイル (480 km)
1968年400マイル (640 km)
1969年250マイル (400 km)
1970年275マイル (443 km)
1971年23マイル (37 km)
1972年50マイル (80 km)
1973年35マイル (56 km)
1974年0 マイル (0 km)

存続した路線

対象線区の全てが廃止されたわけではなく、多くの路線が政治的な理由から存続した。例としてスコットランドハイランド地方を通るファー・ノース線(英語版)やウェスト・ハイランド線(英語版)などは、ハイランド地方の強力なロビーの圧力が存続理由の1つとなった[2]。ハート・オブ・ウェールズ線(英語版)は多数の与野党が伯仲する選挙区を通り、廃止実行の勇気が誰にもなく存続したといわれている[2][3]

これに加えて、コーンウォールのタマー・ヴァレー線(英語版)など、並行道路の未整備を理由に存続した路線もある。

ビーチングの斧と別の理由で後年廃止された路線もある。マンチェスターとシェフィールドを結ぶウッドヘッド線(英語版)は、依存していた貨物輸送の衰退により1981年に廃止された。
ビーチング第2段階ビーチング第2段階が実施されていた場合のイギリス国鉄の路線図、太線の線区を残して全廃予定であった

1964年、ビーチング博士は2番目のあまり知られていない報告、最初の報告書よりさらに踏み込んだ「主要幹線ルートの開発」(The Development of the Major Railway Trunk Routes)[11] 、あるいはビーチング第2報告書と呼ばれる報告書を発表した。報告書では、大規模な投資を続行する価値があると考えられる路線を選定した。

この報告では、都市間ルートや都市近郊の重要な通勤路線以外の路線を全廃すべきとしていた。右の地図はこの報告が実行された場合の結果を示しており、鉄道網は7,000 マイル(11,260 キロメートル)に削減され、イギリスには骸骨のような路線網しか残らないことになる。国土のうちのある部分、ウェールズの大半、北部スコットランド、ヨークシャー、イースト・アングリア、南西イングランドにはほとんど鉄道が残らないことになった。
大規模投資対象外とされた主要路線

イースト・コースト本線ニューカッスル以北

ノース・ウェールズ・コースト線チェスター - ホーリーヘッド

ウェスト・ウェールズ線(英語版)

セトル - カーライル線(英語版)

カンブリアン・コースト線(英語版)

ウェスト・オブ・イングランド本線(英語版):レディング - トーントン (Taunton)間

コーニッシュ本線(英語版):プリマス以西

グレート・イースタン本線以外のイースト・アングリアの全ての路線

パースダンディーアバディーン以北およびウェスト・コースト本線以西のスコットランドの全ての路線

この報告は行きすぎとみなされ、労働党政権によって却下された。ビーチング博士は1965年に辞任した。路線の廃止に責任があるのは政治家であるにもかかわらず、ビーチング博士の名前は路線廃止の代名詞となった。
政策の変化

1964年に政権を獲得した労働党のハロルド・ウィルソンは、鉄道廃止の中止を政権公約に掲げていた。しかし、労働党は政権に就くとすぐにこの公約を撤回して、1960年代末以前の前政権時代よりさらに速いペースで廃止は続行された。

1965年、バーバラ・キャッスル (Barbara Castle) が運輸大臣に指名された。彼女は将来予測で少なくとも11,000 マイル(17,700 キロメートル)の路線が必要と決定し、鉄道網はこの規模で安定すべきとした。

1960年代末に向けて、鉄道の廃線は、当初期待していた支出削減や鉄道網の収支欠損の改善の効果は薄く、今後も見込めないことが一層明白になってきた[2]。キャッスルはまた、その収支を償うことはできないが社会的に価値のある役割を果たす路線については、政府が補助すべきであると規定した。しかしながら、これを可能にする規定が1968年交通法(Transport Act 1968、第39章に3年間の補助金支給条項がある)に盛り込まれた時点で、この補助金の支給を受けたであろう多くの路線が既に廃止・撤去されており、この規定の効果を薄れさせた。結果的にはこの規定により多くの支線が廃止を免れた。
概観

鉄道路線廃止による支出削減と収支改善は失敗に終わった。鉄道網のほぼ3分の1が廃止され約3000万ポンドの支出を削減したが、1億ポンドを超える総損失が続いていた[3]。支線の廃止で機能していた幹線のフィーダー交通の機能が失われ、結果として幹線も含めて輸送量と収入が減少した。廃止支線の利用者は自宅から幹線の最寄駅で自動車を利用し列車に乗り換えると予測されたが、実際は自動車で最終目的地まで直行するようになった。貨物輸送も同様に貨物を戸口から戸口へ輸送する能力を大幅に失った。旅客の場合と同じくトラックが貨物を集めて最寄の駅まで運び、貨物列車で長距離を輸送し、再びトラックに積み替えられて目的地へ運ぶモデルが想定されていたが、高速道路網の発展とコンテナ化の進展、そして2箇所で貨物の積み替えを必要とすることによる純然たる経済コストの問題などにより、長距離の道路輸送は鉄道の代替手段として確立した。

廃止路線の多くは赤字額が大きくなく、例えばサンダーランド - ウェスト・ハートルプール (West Hartlepool) 間路線の運行費は1マイルあたりわずか291ポンドにすぎないなど[2]、地方路線の廃止による全体の赤字解消額は僅かであった。皮肉にも利用の非常に多い通勤路線が最大の損失を出していたが、ビーチングも通勤路線の廃止は政治的・現実的にも大問題であるという点は承知していた[2][3]


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