ビンセント・リチャーズ
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ビンセント・リチャーズ
Vincent Richards


ビンセント・リチャーズ
基本情報
愛称ビニー(Vinnie)
国籍 アメリカ合衆国
出身地同・ニューヨーク州ヨンカーズ
生年月日 (1903-03-20) 1903年3月20日
没年月日 (1959-09-28) 1959年9月28日(56歳没)
身長178cm
利き手右
バックハンド片手打ち
殿堂入り1961年
4大大会最高成績・シングルス
全仏ベスト4(1926)
ウィンブルドン(英)ベスト8(1924)
全米ベスト4(1922-26)
4大大会最高成績・ダブルス
全仏優勝(1926)
ウィンブルドン(英)優勝(1924)
全米優勝(1918・21・22・25・26)
優勝回数7(仏1・英1・米5)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全米優勝(1919・24)
優勝回数2(米2)
獲得メダル

男子 テニス
オリンピック
1924 パリシングルス
金1924 パリダブルス
銀1924 パリ混合ダブルス

■テンプレート  ■プロジェクト テニス

ビンセント・リチャーズ(Vincent Richards, 1903年3月20日 - 1959年9月28日)は、アメリカニューヨーク州ヨンカーズ出身の男子テニス選手。1924年パリ五輪の男子シングルス・男子ダブルスで優勝し、単複金メダルを獲得した選手である。“Vinnie”(ビニー)という愛称で呼ばれたリチャーズは、ダブルスの名手として4大大会の男子ダブルスで通算「7勝」を記録した。日本原田武一選手との対戦と交流を通して、日本とも深いつながりを持つ選手だった。
来歴

ビンセント・リチャーズは早くも15歳の時に、1918年全米選手権男子ダブルス(当時は「全米ダブルス選手権」“U.S. doubles championships”という名称だった)でビル・チルデンからパートナーに指名され、決勝でフレッド・アレクサンダービールズ・ライトの組を 6-3, 6-4, 3-6, 2-6, 6-2 で破って初優勝した。それから1922年まで、リチャーズはチルデンとのペアで活躍し、1919年オーストラリアノーマン・ブルックス&ジェラルド・パターソン組に敗れたが、1921年1922年に2年連続で3度の優勝をした。1924年ウィンブルドン選手権男子ダブルスで、リチャーズはフランシス・ハンター1894年 - 1981年)とペアを組んで初優勝を飾る。

同年に行われたパリ五輪で、リチャーズは男子シングルス・男子ダブルスの両部門で優勝し、単複とも金メダルを獲得した。男子シングルス決勝では、フランスアンリ・コシェに 6-4, 6-4, 5-7, 4-6, 6-2 で勝ち、男子ダブルス決勝ではハンターとのペアでコシェとジャック・ブルニョンの組を 4-6, 6-2, 6-3, 2-6, 6-3 で破り、単複ともコシェを倒しての栄冠獲得だった。しかし混合ダブルス部門では、マリオン・ジェサップ(Marion Jessup)とのペアで銀メダルに終わり、3部門金メダル達成はならなかった。その後、全米選手権では1925年1926年リチャード・ウィリアムズとのペアで2連覇を達成し、1926年全仏選手権男子ダブルスでもハワード・キンゼイと組んで優勝した。

ビンセント・リチャーズは、興行としての「プロテニス」の創設に関わった人のひとりでもある。スポンサーとなった「C・C・パイル社」によるプロ選手契約書に署名した、世界最初のプロテニス選手たちの顔触れは以下の通りである。フランススザンヌ・ランラン、ポール・フェレー、アメリカメアリー・ブラウン、ビンセント・リチャーズ、ハワード・キンゼイ、ハーベイ・スノッドグラスの6名が、1926年の冬から1927年にかけて北アメリカで行われた史上初の「プロテニスツアー」に参加した。もはや4大大会への参加資格がなくなったプロ選手たちは、新たなトーナメント群を開設する。1927年に最初の「全米プロテニス選手権」(U.S. Pro Championships)がニューヨークで始まり、リチャーズは最初の優勝者となった。リチャーズたちが「プロテニス選手」となったことから、彼が単複の金メダルを獲得した1924年パリ五輪の後、テニスは1928年アムステルダム五輪でオリンピック種目からも除外された。

プロテニス選手になったビンセント・リチャーズは、1927年10月に原田武一の招聘を受けて日本を訪れた。リチャーズは慶應義塾大学のコートや甲子園コートなどでエキシビション・マッチを行い、日本のファンに「世界のテニス」を紹介した。リチャーズの来日をきっかけに、世界の名選手たちが続々と日本を訪れるようになり、海外トップ選手たちのプレーを日本国内で見る機会が増えた。リチャーズは1959年9月28日ニューヨークで56歳の生涯を閉じた。死去した2年後の1961年国際テニス殿堂入りを果たしている。

プロテニス選手たちがオリンピックへの参加を認められた1988年ソウル五輪から、64年ぶりにオリンピック競技としてのテニスが復活する。リチャーズの偉業から80年後、2004年アテネ五輪チリニコラス・マスーが単複金メダルを獲得した。
4大大会ダブルス優勝

全仏選手権:1勝(1926年)

ウィンブルドン選手権:1勝(1924年)

全米選手権:5勝(1918年・1921年&1922年・1925年&1926年)

外部リンク.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ビンセント・リチャーズに関連するカテゴリがあります。



ビンセント・リチャーズ - 国際テニス殿堂のプロフィール (英語)



ビンセント・リチャーズ - デビスカップのプロフィール (英語)

ビンセント・リチャーズ - 国際テニス連盟

ビンセント・リチャーズ - Olympedia(英語)

アテネオリンピックテニス・メディアガイド (英語、全146ページのPDFファイル)

 ビンセント・リチャーズ 獲得タイトル










 全仏テニス選手権(1925?1967)男子ダブルス優勝者


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