ビング・クロスビー
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Bing Crosby
ビング・クロスビー
1951年
本名ハリー・リリース・クロスビー
生年月日 (1903-05-03) 1903年5月3日
没年月日 (1977-10-14) 1977年10月14日(74歳没)
出生地ワシントン州
国籍 アメリカ合衆国
職業俳優歌手、エンターテイナー
ジャンルジャズポップス
活動期間1926年 - 1977年
活動内容歌手、映画ラジオテレビ
配偶者ディキシー・リー(1930年 - 1952年)
キャスリン・グラント(1957年 - 1977年)
著名な家族ハリー・クロスビー(息子)
メアリー・クロスビー(娘)
デニーズ・クロスビー(孫)
ボブ・クロスビー(弟)
主な作品
映画
ホワイト・クリスマス
上流社会
駅馬車

 受賞
アカデミー賞
アカデミー主演男優賞
その他の賞

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世界ゴルフ殿堂殿堂表彰者
選出年1978年

ビング・クロスビー(Bing Crosby、1903年5月3日 - 1977年10月14日)は、アメリカ合衆国歌手俳優。世界初のマルチメディア・スターとも言われ、20世紀を代表する世界的な人気と影響力を持つ音楽家であった[1]
プロフィールクロスビーのサイン
生い立ち

ワシントン州タコマで、簿記係のハリー・ロウ・クロスビー[2]とキャサリン・ヘレン(旧姓ハリガン)のもとに生まれる[3]。父親はイングランド[4]、母親はアイルランド系アメリカ人のルーツを持つ[5]。父方の先祖にはメイフラワー号でアメリカに移住したプリマス植民地ピューリタン指導者のウィリアム・ブリュスターがいる[6]高校時代から演劇や音楽に関心を持ち、同州第2の都市のスポーケンでトップ私立大学のゴンザガ大学法学部に進学するが、友人のアル・リンカーらとジャズバンドを結成してほどなく大学中退、プロ・ミュージシャンとなる。後年にゴンザガ大学に私財を投じてビング・クロスビー・センターを建設し、現在も残っている。
プロデビュー

1926年には当時の人気オーケストラであるポール・ホワイトマン楽団に歌手として入団、翌1927年にはホワイトマン楽団内で結成された男性3人組コーラスグループ「リズム・ボーイズ」のメンバーとなる。のち「リズム・ボーイズ」はホワイトマン楽団から独立して人気グループとなった。

その後、ソロで歌唱した1931年の「アイ・サレンダー・ディア(I Surrender, Dear)」 などがヒットしたことから、ソロ歌手として独立する。この年、ラジオ普及が進んだ時代を背景に、CBSラジオで自らのラジオショー「ビング・クロスビー・ショー」を持つに至って、全米的な人気を獲得した。ラジオを媒体として人気を得た歌手の初期の代表例である。
クルーナー・スタイルの確立

クロスビーは1930年代当時、ラジオと共に普及し始めたマイクロフォンの増幅機能を活かして、声を張り上げず滑らかに発声する歌唱法「クルーナー・スタイル」を最初に確立した歌手としても知られる。

クルーナー・スタイルは、マイクロフォンとスピーカーを介することで発声の制約が生じることを逆手にとって編み出された歌唱法であったが、オペラなどと同様に肉声で大声を力強く出さなければならない在来の歌唱法を大きく革新したもので、歌唱にスマートに洗練されたイメージをも与え、広く大衆の支持を得ただけでなく、その後のポピュラー・ソングの曲作りにも大きな影響を与えた。
トップスター第二次世界大戦中にアメリカ軍放送のレコーディングを行うビング・クロスビー(右端)とフランク・シナトラ(左端)映画『ホワイト・クリスマス』でダニー・ケイとともにペリー・コモとアーサー・ゴドフリーとともに

1930年代に歌手としてトップスターの地位を確立したクロスビーは、その後映画にも進出し、第二次世界大戦前後のミュージカル映画の全盛期を通じて生涯で57本の映画に出演した。

20年以上にわたるロングランシリーズとなった「珍道中シリーズ」をはじめ、映画興行でも最も観客動員力のある主演スターとして長年ハリウッドのトップに君臨した。

また、『我が道を往く』でアカデミー主演男優賞を受賞し、『喝采』で同賞にノミネートされているなど、その演技力も高い評価を得た。
「クリスマスソングの王様」

なお、歌手として1940年以降、13曲の全米No.1ヒット(『ビルボード』誌)を持つ。「ホワイト・クリスマス」や「星にスイング」、「サイレント・ナイト」などの数々のヒット曲を世に出したこともあり、生涯のレコード売上は4億枚を超えるという。

第二次世界大戦中の1942年に発売され、リメイク版を含めて全世界で4千500万枚を超える大ヒットとなった「ホワイト・クリスマス」(White Christmas)が有名

なお、この曲は発売以降ビルボードで14週間1位を記録した。クロスビーは他にも多くのクリスマスソングを歌っており、「クリスマスソングの王様」とも呼ばれている。
ミュージカル映画

第二次世界大戦後には大作ミュージカル映画にもジミー・デュランテフランク・シナトライングリッド・バーグマンなどと多数出演を続けたほか、全米的な人気ラジオ番組となった「ビング・クロスビー・ショー」も継続した。

さらに1950年代に入ると、テレビジョンの普及に併せてテレビショーやトークショーなど、映画以外のジャンルでも活躍し人気を得た。
晩年

晩年も盛んにレコーディングを行い、晩年には『追憶』やコーラスラインから『愛の後悔』などもそのアルバムの中に残している。1977年11月に来日公演の予定だったが怪我のため翌年に延期。
死去

クロスビーは1977年10月14日にスペインマドリード郊外モラレハにあるゴルフ場にて、プロゴルファーのマヌエル・ピエロらとコースを回った直後、午後6時30分頃にクラブハウスから20ヤード近くの場所で心臓麻痺により倒れ、クラブハウス内や救急車内で蘇生処置が行われたものの近くの病院で息を引き取った。
家族

1930年に女優のディキシー・リーと結婚し4人の子供に恵まれるが、リーは1952年に卵巣がんで亡くなる。1957年に女優のキャスリン・グラントと再婚。「ボブ・クロスビー楽団」で知られるボブ・クロスビーは弟、映画『13日の金曜日』に出演したハリー・クロスビーは息子、女優のメアリー・クロスビーは娘、女優のデニーズ・クロスビーは孫。

1980年代に活躍し日本でも人気のあったヘビーメタル・バンド「ラット(RATT)」のギタリストであるロビン・クロスビーは遠縁の親戚である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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