ビル・ヘイリー
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ビル・ヘイリー
左から右 Joey D'Ambrosio, Dick Richards, Bill Haley 1954年「Roundup of Rhythm」出演時のスチル
本名William John Clifton Haley
生年月日 (1925-07-06) 1925年7月6日
没年月日 (1981-02-09) 1981年2月9日(55歳没)
出生地 アメリカ合衆国 ミシガン州ハイランド・パーク
国籍 アメリカ合衆国
身長180cm
職業ミュージシャン、エンターテイナー
ジャンルロックンロールカントリーロカビリー
活動期間1944年-1980年

 受賞
ロックの殿堂

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ウィリアム・ジョン・クリフトン・ヘイリー(William John Clifton Haley、1925年7月6日(または、1927年3月とも言われる)- 1981年2月9日[1])はアメリカのミュージシャン。1950年代中期に興るロックンロール・ブームの先駆者の1人。ヒット曲の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は「ロックンロールの古典」として最も著名な1曲である。
生い立ち

アメリカのミシガン州ハイランドパークに生まれる(生まれ年には諸説があり、1952年のシングル盤によると、1927年3月に生まれた、また、1953年のシングル盤には1925年7月に生まれた、などがあり現在も生まれ年は不明である)。幼少期に両親とともにフィラデルフィアに隣接するペンシルヴァニア州チェスターに移住した。当時、カントリーミュージックはスィングと共に地元ペンシルヴァニアでも非常に人気があり、ビルの音楽スタイルの基盤を形成した[2]。10代の時、近郊の競売マーケットでの路上演奏により初めての収入を得る。ギタリストとして「カズン・リー・バンド(Cousin Lee Band)」?1944年「ダウン・ホーマーズ(Downhomers)」?「レンジ・ドリフターズ(Range Drifters)」に在籍、北西部の巡業を行う。1946年「ダウン・ホーマーズ」時代に最初の録音を経験する[3]
レコードデビューCOWBOY CR-1202 Tennessee Border

1948/Aug.14 [Four Leaf Clover Blues / Too Many Parties And Too Many Pals](Cowboy CR-1201)

1949/Mar.19 [Candy Kisses / Tennessee Border](Cowboy CR-1202)

1950/Apr.8 [ Deal Me A Hand / Ten Gallon Stetson](Keystone 5101)

1950/Apr.8 [ Susan Van Dusan / I'm Not To Blame ](Keystone 5102 )

1950/Oct [ I'm Gonna Dry Ev'ry Tear With A Kiss / Why Do I Cry Over You?](Atlantic 727)[4][注釈 1](注)タイトル・クレジット左の日付はリリース日を指す。以下同様

1948年、地元チェスターに戻ると自身のバンド「フォーエイセス(Four Aces)」を結成、ラジオ局、WPWAに出演を始める。ジャック・ハワード[注釈 2](Jack Howard)とジム・マイヤーズ[注釈 3](Jim Myers)が共同経営するカウボーイ・レーベルで「キャンディ・キス(Candy Kisses)」(ジョージモーガン1949年ヒット)を含む2枚のシングルをリリースするもヒットには至らず、カウボーイ自体も少数のリリースののち消滅してしまう。その後、センター、キーストン、アトランティック等のレーベルを転々とするがヒットに恵まれず、WPWAへの出演で糊口をしのいでいた。 また、1950年にはバンド名を「フォーエイセス」から「ザ・サドルメン(The Saddlemen)」に変更している[2]
ホリデイ/エセックス時代
1951年 黒人音楽

July.14 [Rocket 88 / Tearstains on My Heart] (Holiday 105)

Sept.29 [Green Tree Boogie / Down Deep in My Heart] (Holiday 108)

Dec.8 [A Year Ago This Christmas/ I Don't Want To Be Alone For Christmas] (Holiday 111)
[4]

この年ビルはフィラデルフィアでホリデイ(Holiday)、エセックス(Essex)などのレーベルを経営するデイブ・ミラー(Dave Miller)と契約を交わす。最初の録音となったのはミラーの意向によりシカゴのチェス・レコードからリリースされたジャッキー・ブレンストン(Jackie Brenston)のカヴァー「ロケット88(Rocket 88)」[注釈 4]が選ばれた。録音はWPWAの地下の石炭倉庫で行われた[2][5]。当時、一般的にタブーとされていた白人による黒人音楽のカヴァーだったが、ミラーはこのレコードの宣伝にあたって白人黒人双方の購買層を狙うため、ビルが白人であることを伏せ、写真も使用しなかった。1万枚販売[6]
1952年 創造の瞬間

Feb.23 [Jukebox Cannonball/ Sundown Boogie] (Holiday 113)

Apr.26 [Rock the Joint / Icy Heart] (Essex 303)

June [Dance with a Dolly / Rocking Chair on the Moon] (Essex 305)

Sept [Beatn'around the mulberry bush/Real rock drive] (Essex 45-310)
[4]

当時ビルが出演していたラジオ局WPWAでは「ジャッジ・リズム・コート(リズムの裁判判決)」(DJ ジム・リーヴス)という番組があり、そのテーマ音楽としてジミー・プレストン(Jimmy Preston)の「ロック・ザ・ジョイント(Rock The Joint)」[注釈 5]を使用していた。ヒルビリー音楽には無い高揚感を持つこの曲をビルは気に入っていて、歌詞の一部を変更し録音、カントリー・バラード「アイシー・ハート(Icy Heart)」とのカップリングで発売される。A面の『アイシー・ハート』の宣伝を目的としたプロモーション・ツアーを行ったが、ポップ系DJからはB面の『ロック・ザ・ジョイント』に話題が集中した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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