ビル・ブラック
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ビル・ブラック
映画「ティーンネイジ・ミリオネア」出演時のスチル (1962)
基本情報
出生名ウィリアム・パットン・ジュニア
生誕 (1926-09-17) 1926年9月17日
出身地 アメリカ合衆国テネシー州メンフィス
死没 (1965-10-21) 1965年10月21日(39歳没)
ジャンルロカビリー
ロックンロール
カントリー
担当楽器ベース
活動期間1954年-1962年
レーベルSun, Hi
共同作業者スコティ・ムーア (Gt)
エルヴィス・プレスリー (Vol)
サム・フィリップス (レーベル経営者)
レジー・ヤング (Gt)
著名使用楽器
ケイ マエストロM-1
フェンダー プレジョンベース

ビル・ブラック(本名: ウィリアム・パットン・Jr〈William Patton "Bill" Black、Jr.〉、1926年9月17日 - 1965年10月21日)はアメリカのミュージシャン。ベーシスト、バンド・リーダー。1954年からスコティ・ムーア (Gt) と共に初期エルヴィス・プレスリー (Vol) のバッキングを務め、1959年自己のバンド、ビル・ブラック・コンボ結成。1960年 - 63年ビルボード誌「最優秀インストロメンタル グループ」選出。代表曲「スモーキー パート2」「ホワイト・シルバー・サンズ」。
生い立ち - 初期のキャリア

1926年9月17日テネシー州メンフィス9人兄弟の長男として生まれる。1939年 (13歳) 父親手製の楽器で演奏を始め、1942年 (16歳) ギタリストとして地元のクラブへ出演。1940年代半ば兵役のためバージニア州へ。1946年従軍中出会ったミュージシャン、エヴリンと結婚、3児をもうける。除隊後メンフィスに戻りファイヤーストーン・タイヤ (ゴム製造会社) で働きながらセミ・アマチュアの音楽活動を行う。1952年ギタリスト、スコティ・ムーアと知り合い意気投合、行動を共にする。ジョニー・バーネット・トリオ結成前のドーシー・バーネットのバッキングを行った[1]
1952年 - スターライト・ラングラーズ

1952年スコティ・ムーアをリーダーとして「スターライト・ラングラーズ」 (Starlight Wranglers) を結成。メンバーはビルの働くファイヤーストーンの同僚が中心となり構成された。

Millard Yeow (Firestone) - fiddle.

Tommy Seals - steel guitar.

Scotty Moore - guitar.

Bill Black (Firestone) - bass.

Doug Poindexter (banker) - vocals.

Clyde Rush (Firestone) - guitar

(注 メンバーは固定ではなく随時入れ替わった。確認されるプレイヤーを記載)[1]

スコティ・ムーアの回想。「私たちはそのころ、メンフィスのホンキートンク[注釈 1]にいくつか出演していました。サム[注釈 2]から電話をもらって、私はサムに会いにいきました。なんとかこの世界でめをだすにはレコードをつくらないことにはどうにもならない、と考えたからです。私とサムは、親しくなりました。サムは、よろこんで熱心に仕事をする人をさがしていて、私たちは、自分のバンドを彼に寄贈したような感じで働きました。サムは、たしかに私たちのバンドのレコードを出してくれましたからね。[注釈 3]五十枚かあるいは百枚ほどプレスしたのでしょう。とにかくそれ以上の枚数は売れませんでした」[2]
1954年 - ブルームーン・ボーイズ左からElvis Presley、Scotty Moore and Bill Black

1953年夏、メンフィス ユニオン通り706番 メンフィス・レコーディング・サービス

「あら、物乞いかしら?」サン・レコードの女性従業員マリオン・ケイスカー[注釈 4] はふらりとスタジオに入って来た意年を訝しげに見た。「彼は長髪でカーキ色の作業服を着ていたました。その頃のユニオン通りは放浪者が多かったのです。」青年は3.98ドルを支払い母親へのプレゼントだと言ってレコードを一枚制作した。[注釈 5]ふ、とその歌声に感じ入るところあり彼女はテープレコーダーの録音スイッチを入れ、名前のわきにこう書き添えた。「エルヴィス・プレスリー グッド・バラード・シンガー」。

1954年6月27日 サム・フィリップスはこの未知の素材を試すべく[注釈 6]オーディションを行う。あまり事を大げさにしたくないサムはフルバンドは不要と考え、ビルとスコッティの二人だけをスタジオに呼んだ。「初めてエルヴィスの名前を聞いたときは驚きました。SF小説の登場人物かと思ったくらいです。」 (スコティ) 簡単に終わるはずのオーディションは数か月に及び、いつしかレコード制作のリハーサルとなっていた。3人は昼の仕事を終えるとサン・スタジオに集まりセッションを繰り返す。その中から偶発的に生まれた「ザッツ・オールライト・ママ」[注釈 7]がA面に決定。プレイバックを聞いたビルとスコティは思わず首をすくめた。「こんなレコードが発売されたら俺たちメンフィスから追い出されるぞ。」[2]

「おなじようなやりかたでB面をつくろうとして、三晩か四晩、つぶしたのです」スコティは言う。「やっと『ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー』でおなじ感じがつかめてうまくいきました。あの歌、この歌といろいろやってみたのですが、どれもテープにはとらずじまいだったと思います。ビルが、とびあがるようにして立ちあがったかと思うと、ベースを相手にふざけはじめて、ビル・モンロー (その曲をつくったブルーグラス・ミュージシャン) を真似してファルセットで『ブルームーン・オブ・ケンタッキー』をうたいはじめたのです。エルビスがギターを叩きはじめ、ついにふたたび、あのリズムがとりもどせたというわけです。」[2]サムは出来上がったマスターを元にデモディスクを制作、デューイ・フィリップス[注釈 8]の元へ持ち込む。デューイは地元メンフィスのラジオ局WHBQで黒人音楽を専門に放送する「レッド・ホット・アンド・ブルー」の人気DJ。人種隔離が根深く残る南部で「白人の歌うブルース」というタブーに抵触する「ザッツ・オールライト・ママ」をオンエアできるのはこの局しか無かったからだ。デューイはこの異質のレコードを気に入り番組内で放送、リスナーの反響を呼んだ。サンはまだ1枚もプレスしていないシングルに5千枚の予約を受ける事になった。[2]1954年10月16日 ルイジアナ・ヘイライド出演「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」

1954年10月16日「ルイジアナ・ヘイライド」出演。同ステージはラジオ局KWKHの主催により1948年から開始されたカントリーショウ。「グランド・オル・オープリー」 (テネシー州ナッシュビル)、「ザ・ビッグD・ジャンボリー」 (テキサス州ダラス) などと並び最高の格付けがされ[3]ルイジアナ州シュープポート記念講堂からショウの模様をCBS系列190のラジオ局が放送を行った。三人は新人アーティストを紹介するコーナー<「Lucky Strike Guest Time」[注釈 9]に出演、デビューシングル2曲を演奏。一年間の出演契約を結ぶ。。[注釈 10][注釈 11]

デビューシングルの成功はいくつかの軋轢を生んだ。オーディションのつもりでバックアップしたビルとスコティの二人だが、イーグル・ネスト[注釈 12][注釈 13]などのクラブへ「ブルームーン・ボーイズ」の名でエルヴィスと共に出演するに至り、取り残された形のスターライト・ラングラーズの他メンバーから不満が噴出、バンドの解散を余儀なくされた。[注釈 14]そしてマネージャー、ボブ・ニール[注釈 15]によるギャランティーの分配 (エルヴィス50%、ビルとスコティ共に25%)[注釈 16]をさらにエルヴィス偏重にした事による二人の不満と。[2]

1955年11月エルヴィス・プレスリー、RCAヴィクターと契約。当時としては破格の3年間4万ドルの契約だったが、それはあくまでエルヴィス一人であってビルとスコティはロイヤリティ契約から除外されレーベルの記載からも二人の名は消えた。専属ミュージシャンとして録音と公演のサポートは従来通り行ったが、1958年週200ドルのギャランティーを不服としマネージャー、トム・パーカーに賃上げ要求を行うも逆に解雇通告を受ける。[2]
1959年 - ビル・ブラック・コンボBill Black Combo Flyer (1962)

1959年ビル・ブラック・コンボ結成。エルヴィスと袖を分かったビルはメンフィスに戻りエース・アプリエンス (エアコン会社) で働きながら新グループ結成の構想を練る。旧知の間柄だった歌手レイ・ハリスからハリス自身が経営陣に名を連ねるハイ・レコードの話を聞きバンドを結成。メンバー内の知名度から「ビル・ブラック・コンボ」と名付けられた。

Bill Black (Bass)

Martin Wills (T.sax)

Reggie Young (E.Gt)

Jerry Arnold (Drs)

ハイ・レコードは1957年メンフィスで創業したマイナー レーベル。レイ・ハリス (歌手)、ジョー・クオギ (レコード店経営)、ビル・カントレル、クイントン・クランチの4人を経営陣とし、南ローダーデール通りのロイヤル・スタジオを拠点に録音を行っていた。

1959年 「スモーキー パート2」がヒット。10月リリースされたデビューシングルがR&B部門1位、ポップ部門17位となりハイにとっても最初のメジャーヒットとなる。

1960年 「ホワイト・シルヴァー・サンズ」R&B部門1位。


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