ビル・バックナー
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ビル・バックナー
Bill Buckner
レッドソックス時代(1986年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地カリフォルニア州ヴァレーホ
生年月日 (1949-12-14) 1949年12月14日
没年月日 (2019-05-27) 2019年5月27日(69歳没)
身長
体重6' 0" =約182.9 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション一塁手外野手
プロ入り1968年 MLBドラフト2巡目(全体25位)
初出場1969年9月21日
最終出場1990年5月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴


ロサンゼルス・ドジャース (1969 - 1976)

シカゴ・カブス (1977 - 1984)

ボストン・レッドソックス (1984 - 1987)

カリフォルニア・エンゼルス (1987 - 1988)

カンザスシティ・ロイヤルズ (1988 - 1989)

ボストン・レッドソックス (1990)

コーチ歴


シカゴ・ホワイトソックス (1996 - 1997)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ウィリアム・ジョゼフ・バックナー(William Joseph Buckner , 1949年12月14日 - 2019年5月27日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ヴァレーホ出身の元プロ野球選手一塁手外野手)。
経歴カブス時代(1981年)

ロサンゼルス・ドジャースより1969年9月21日に19歳でメジャーデビュー。1990年に40歳で引退するまで、1960年代 - 1990年代までプレーした「4ディケード・プレイヤー」であった。

通算打率.289の好打者として活躍し、ドジャース時代には1974年ナ・リーグ優勝し、ワールドシリーズ出場を果たす。1977年1月11日リック・マンデイ他1人とのトレードで他の2人と共にシカゴ・カブスに移籍。1980年には首位打者を獲得した。1981年には唯一となるオールスターに選出された。

1984年5月25日にデニス・エカーズリー他1人とのトレードでボストン・レッドソックスに移籍。1986年ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズに出場したが、チームがシリーズ制覇に王手を掛けていた第6戦で、一塁の守備に就いていた延長10回裏の勝負所でゴロを後逸。このプレーを境に、チームばかりか自身の人生も暗転した(詳細後述)。

現に、1987年7月23日にレッドソックスを解雇されてからは、短期間の移籍を繰り返した。同年7月28日にカリフォルニア・エンゼルスと契約したものの、翌1988年5月9日に解雇されたため、同月13日にカンザスシティ・ロイヤルズへ移籍。シーズン終了後にFAへ移行したため、1990年2月にレッドソックスと再び契約したが、6月5日に解雇されたことを機に引退した。

2019年5月27日に、レビー小体型認知症で逝去した。69歳没[1]
選手としての特徴

2012年シーズン終了時点で通算成績のうち、出場試合2517はMLB歴代50位、打数9397は45位、安打2715は62位、二塁打498は60位、単打1994は49位、犠飛97は36位、敬遠111は97位、併殺打247は34位である。

三振は少なく、通算では20.7打数で1三振(以下略)である。この部門において、1980年(32.1)、1982年(25.3)、1985年(18.7)、1986年(25.2)の4回リーグ最高の成績を残し、1979年1981年1983年、1987年も第2位であった。この部門でのメジャー歴代順位は94位だが、上位はほとんどが三振の少ない時代(主に1910年代以前)までの打者で、近年の打者の中では非常に優秀である。主に1970年代以後に活躍した他の好打者と比較すると、トニー・グウィンの21.4にはわずかに及ばないが、ウェイド・ボッグスは12.3、ロッド・カルーは9.06、ビル・マドロックは12.93、イチロー(2012年まで)は9.94と、バックナーの数字は際立っている。そのかわり、早打ちのため四球は少なく、通算450でしかない。通算打率.289に対し、出塁率は.321でしかない。

メジャー公式戦での通算安打数は2715安打(2012年終了時点でMLB歴代62位)で、レッドソックスの大先輩テッド・ウィリアムズよりも61本多いにもかかわらず、ウィリアムズと違ってアメリカ野球殿堂入りは果たせていない。バックナーよりも多くの安打を記録した殿堂入りの有資格者(引退から5年以上経過した元・メジャーリーガー)で、八百長違法薬物に手を染めていないどころか、そのような疑惑すら生じていないのに殿堂入りを果たせていない人物は、アル・オリバーベイダ・ピンソンだけである。
1986年ワールドシリーズ第6戦のトンネル失策

1986年のワールドシリーズはレッドソックスとメッツの戦いとなり、メッツの本拠地シェイ・スタジアムで幕を開けた。レッドソックスは第1戦・第2戦を敵地で連勝。本拠地フェンウェイ・パークに戻って第3戦・第4戦と敗れたが、第5戦に勝って1918年以来68年ぶりのワールドシリーズ制覇に王手をかけて、シェイ・スタジアムに乗り込んだ。

そして迎えた第6戦。試合は、レッドソックスが2度リードを奪うがメッツは追いつき、3対3のまま延長戦へ。10回表、レッドソックスはこの回から登板したリック・アギレラを攻め、デーブ・ヘンダーソンの本塁打等で2点を獲り、ワールドチャンピオンまで、あとはアウトを3つ取るだけとなった。

当時のレッドソックスは、通常、リードしている試合の終盤には、足に故障もあって、守備のあまり上手くないバックナーに代えて、守備固めとしてデーブ・スティプルトン(英語版)を起用することが多かった。このシリーズでも第1戦に、1-0とリードした9回にバックナーに代えてスティプルトンを起用。無死一塁の場面でスティプルトンは送りバントを素早く処理して一塁走者を二塁封殺し、1-0の完封勝利に貢献しているのだが、この試合では敢えてスティプルトンを起用しなかった。

クローザーのカルビン・シラルディ(英語版)が二死をとり後一死となったが、メッツが意地を見せ4番のゲイリー・カーターが安打で出塁。続く代打ケビン・ミッチェルも0-2(0ボール2ストライク)と追い込まれながらもヒットで続き、レイ・ナイトがやはり0-2と追い込まれながらも適時打を放ち、1点差に追い上げた。

ここでレッドソックスは投手をボブ・スタンリー(英語版)に代える。スタンリーはムーキー・ウィルソンを1-2と追い込むがウィルソンはファウルで粘り、7球目が暴投となって三塁からミッチェルが返り同点。ナイトも二塁に進んだ。

ウィルソンは10球目に一塁への緩いゴロを放ったが、一塁を守っていたバックナーがこの打球を後逸。打球が右翼へ転がる間に、二塁からナイトが生還したことによって、メッツは土壇場でサヨナラ勝利を収めた。


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