ビル・コスビー
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ビル・コスビー
Bill Cosby
ニューヨーク、リバーサイド教会での講演(2010年)。
本名William Henry Cosby, Jr.
生年月日 (1937-07-12) 1937年7月12日(86歳)
出生地ペンシルベニア州フィラデルフィア
国籍 アメリカ合衆国
職業コメディアン・俳優
活動期間1962年 - 2018年[1]
配偶者カミーユ・ハンクス(英語版)(1964-)

 受賞
ゴールデンラズベリー賞
最低作品賞
1987年ビル・コスビーのそれ行けレオナルド
最低主演男優賞
1987年ビル・コスビーのそれ行けレオナルド
最低脚本賞
1987年ビル・コスビーのそれ行けレオナルド
その他の賞

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ビル・コスビー(Bill Cosby、本名 William Henry Cosby, Jr.、1937年7月12日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア出身のコメディアンテレビプロデューサー作家俳優
人物

アメリカを代表するコメディアン。デビュー当時のアメリカ社会では黒人であることによる差別を受けることも少なからずあったが、自身のジョークとしては人種や偏見をテーマにしたものや他人種に対して攻撃的な内容のものはなく、逆に各人種や文化を尊重しており、ジョークとしては彼自身の人生経験をテーマにしたものが多い。「僕は人種をテーマにしなくても、充分笑いを取ることが出来る」と発言している。アメリカを代表する有識者として、彼の言動には絶大な影響力がある。大のアメフト好きとしても知られており、好きなチームはフィラデルフィア・イーグルス(Philadelphia Eagles)だと公言している[2]

母校テンプル大学で、かつて所属していたバスケットボールチームの同窓会役員も務める等、個人的な活動を精力的に行っている。公共のイベントにも数多く参加している。

1964年に当時大学生だったカミーユ・ハンクス(英語版)と結婚し五人の子供を授かった。

2014年には性犯罪疑惑がわき、全米で大きな話題となった。2015年7月にはコスビーの性的暴行被害者と主張する女性35人が『ニューヨーク・マガジン』誌の表紙に登場し[3]、8月には、新たに3人の女性が1970?1980年代に受けた性的暴行を告発したと公表し、告発者の総数は40人以上となる[4]。本件にともない、ビルに授与された名誉博士号がいくつか撤回された[5]
来歴
誕生 - アンダーグラウンド界での活躍

1937年、第二次世界大戦直前に、軍人の父の元[6][7]ペンシルベニア州,フィラデルフィアで生まれる。幼いころからユーモアに溢れた性格だった様で、子供時代は自身の事を「クラス・クラウン(学級内のピエロ)」と呼んでいたほど。その注目を浴びる性格からか、小学校時代は学級委員長や、地元の野球チームのキャプテンまで務めいていた[8]

その後、中学へ進学した彼は遊びで演劇をするようになる。また、この頃、次第にスポーツへも本格的に没頭し始めていた彼はバスケットボールや野球等、様々な分野へと手を伸ばし、勉強との両立が難しくなっていった[9]。なんとか高校へ進学したが、その過密なスケジュールに加えて学校の前後に働いていた[9]こともあり、単位が足らず10年生の時に留年することになってしまう[10]。しかし彼は、留年するよりも就職する道を選び、靴屋で働くが[9]、その後アメリカ軍へと入隊する[11]。しかし、そこで知識と教育の必要性を実感した彼は、遠隔教育を通じて高校の卒業資格を手に入れる[12]。そしてテンプル大学へスポーツ推薦で進学し[13]、体育学を専攻するようになった。その後、コメディアンとしての道へ進む為に、一度大学を離れる。その後、すぐにステージに立ってトークライヴを行うようになり、次第に、その活動場所を地元フィラデルフィアからニューヨーク[注 1]ラス・ヴェガスサンフランシスコへと広げるようになる。そして、少しずつ注目を浴びるようになった彼は、遂に1963年に、大手テレビネットワークNBCへの出演も果たした。当時はまだ人種差別が根強い地域もあったが、彼の「気楽にいこうぜ(easy-going)」精神を全面に押し出したウィットに富んだユーモアセンスは、見事に人種の壁を乗り越えた。当時彼はこんな名言も残している。「白人のリスナー達は、僕のショーを見て笑い、こんな事を思ってるだろう。あぁ、俺もそう思ってたんだよ!と。彼は白人で、僕は黒人だ。そして同じ考え方で物事をとらえていたと気がつく。それはつまり、僕たちは同じ人間だって事を意味してるはずなんだ。だから僕は、これから生まれてくる子供たちが良い人種関係を築けるように、今トークショーをやっているつもりだよ。[14]」と。

その後1964年1月に、ワシントンDCでトークショーを行っている最中に出会った、メリーランド大学の学生カミーユ・ハンクス(英語版)と結婚し、五人の子供を授かる。

長女エリカ(Erika 1965年生まれ。)

次女エリン(Erinn 1966年生まれ。)

三女エンサ(Ensa 1973年生まれ。)

四女エビン(Evin 1976年生まれ。)

長男エニス(Ennis 1969年生まれ。1997年に強盗犯ミカエル・マーキャセブ(Mikhail Markhasev)に銃で撃たれ死亡。)

メジャー後の活躍

1965年に、当時西部劇で名を馳せていたロバート・カルプと共に、アメリカンドラマ史上初の黒人俳優として、コメディドラマ『アイ・スパイ』の主演を果たす。しかし放映当初はあまり人気が出ず、ドラマは衰退傾向にあった。その後、少しずつ人気を獲得していき、最終的にはこの年放映されたドラマの中で最も高い視聴率を記録する程にまで成長。結果的におよそ3年間続いた。また、このドラマで彼はエミー賞も受賞している。そして同ドラマの終了と共に、しばしの休息をとる事になった。

その後1969年に、彼自身が司会を務めるシチュエーションコント番組『The Bill Cosby Show』と共に、本格的に芸能活動を再開した。この番組で彼は、実際にテンプル大学で体育学を専攻していた過去の経験を生かし、体育学の高校教師役を演じていた。そして、この番組が終わると同時に、過去に途中で諦めた学業へ専念する為にマサチューセッツ大学へ入学した。1972年には、大学側から文学修士の学位を授与されている。大学卒業後、再び芸能界へ戻った彼は新たに『The New Bill Cosby Show』を発表したが、視聴率がいまいち上がらず、わずか1シーズンで終わってしまう。しかし同時期に放映された、彼の監修による子供向けアニメ番組『Fat Albert and the Cosby Kids』は見事に成功を収め、その後7年間も続いた。当時はこの番組を教材として使用する学校まで現れており、いかにこのアニメが影響力が凄かったかがうかがえる。ちなみに彼は、この事について論文を書き、マサチューセッツ大学から博士号を授与されている。『Fat Albert and the Cosby Kids』終了後も、新たに『The New Fat Albert and the Cosby Kids』として5年間続いており、前作を含めると結果的に12年間放映された長寿番組となった。

その後も、『Uptown Saturday Night』(1974)、『Let's Do It Again』(1975)、『Mother, Jugs & Speed』(1976)と三年連続でコメディ映画への出演も果たしている。

1984年なると、新たなシチュエーション・コント番組『コスビー・ショー』をNBCでスタートさせた彼だが、これが見事大成功を収め、結果的に1980年代で最も人気のある番組とまで言われるようになる。最終的に、1992年までの約8年間放映された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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